【車屋四六】クロスレイ、ボルグワルトハンザ、ポンティアック

コラム・特集 車屋四六

日本自動車がハドソンとフィアットの日本総代理店、ダンロップタイヤの日本総代理店ということを前回紹介した。

日本自動車の小川社長には、元気はつらつのお嬢さんがいて、名前は確か厚子さん。その頃では珍しい、グライダーの女流パイロットだった。と云うところで私との関連が出てくる。

昭和26年、サンフランシスコ講和条約調印。GHQで禁止されていた空が開放されると、日本航空の他、小さな航空会社が生まれ、新聞社も航空部再開、また青年飛行連盟などの飛行クラブ、一方で戦後中断していた滑空機の飛行活動も再開した。

で、トップで再開したのが戦前からの名門、日本グライダークラブで、私の入会が昭和28年。小川さんは既に腕の良いパイロットだったから、私には兄弟子、いや姉弟子というのだろうか。

戦争前から、その頃もグライダーというものは一人で飛ぶものだったが、日本グライダークラブにはH22型と呼ぶタンデム席のセカンダリーがあって、能率の良い飛行訓練をしていた。

荻原式H22型セコンダリー:訓練が効率化した画期的複座グライダー。自動車曳航で100mほどに上昇。珍しい50年前のカラー写真は色抜けを修正。が、右下隅の大きなカビは取りきれなかった

ある日、小川さんがフィアンセを連れて飛行場に来た。其処で紹介された彼には、今でも時々お目にかかる。(平成2年頃)。というのも、取材に出かけるポルシェ日本総代理店ミツワ自動車で、輸入業務を取りしきるボスだったからだ。戦前からの老舗、日本自動車が存続していれば、多分、社長になっていた人だろうに、世の中判らないものである。

日本自動車は、ひと頃流行ったスパークプラグへの高圧電圧を更に高圧化する装置、サンダーボルトの人気急落で資金繰りが悪化して消滅したとの噂だった。サンダーボルトは高圧発生コイルの頭に被せるだけで、スパークプラグの火花が強くなり、馬力が上がり、燃費が良くなるという願ったりかなったりの商品だった。が、私のテストでは、馬力アップもなく、燃費も変わらなかった。

そんな商品は、古今東西、世界中に後を絶たないが、ごく最近テストした物まで、ほとんどに効果はなかった。もっとも、そのほとんどが毒にも薬にもならないから、精神的満足感を買うつもりなら良いのだろう。が、たまには効果を示すものもあるから、全部を否定するわけにもいかない。困ったものだ。

サンダーボルトが登場した昭和30年代後半、永井電子がウルトラの名で発売した日本初のトランジスタ点火装置は素晴らしい物だったし、コンタクトポイントの焼損を防ぐボンファイアなど、優れた用品もある。最近では未だ結果は出ないが、昨年イギリスで買ったマグネット系燃費&馬力向上用品は効果がありそうだから、いちがいに拒否するのも如何なものかと考える。

さて、話が脱線したが本題に入ろう。昭和30年代、昭和通りに面した味の素本社ビルの裏通りにメイコーという喫茶店があった。その裏には東銀座から日本橋にかけての堀があった。今では首都高になっているが。

私の修理工場には味の素の車も来ており、車の引き取りや届けが裏のガレージなので、いやでも目に付くメイコーの前には、いつも可愛らしいフィアット500Cが駐まっていた。日本自動車が輸入した車で、喫茶店のオヤジさんの愛車だった。もっとも喫茶店のオヤジさんなどと気安く呼んではいけないのかもしれない。本業は、明興社と呼ぶ会社の社長。それは私の修理工場に来るようになってから判った。

なんども紹介したように、昭和30年中頃、私は茅場町で仲間とやっていたガソリンスタンド+修理工場に、縁あってメイコーのフィアットが来るようになりが詳細を見ることができた。

戦後、GHQの禁止が解けて、ダットサンが戦前型で生産再開をしたが、すぐに戦後のスタイルにモデルチェンジしたが、実際には箱が新しいデザインになったというだけだった。

フィアット500Cも同じ手法で、戦後に衣替えをした車である。その原型500Aは、後に巨匠と呼ばれるダンテ・ジアコ-ザ若干30才の時の作品だった。「最も安く小さな車だが大人が満足できる居住性乗り心地」という欲張ったテーマの実現にチャレンジしたのだ。1936年に発表された二座席500は、その可愛らしさから”トポリーノ”の愛称が生まれたが、トポリーノはイタリア語で二十日鼠、また500=チンクエチェントも、そのまま愛称となったのである。

戦後生産再開したトポリーノは、48年に500Bになる。が、見た目は変わらず、トップがキャンバスに。理由は、トップを開けて頭を出せば荷台に二人座って、四座席に早変わりと寸法だった。戦後の逼迫した時代の要求に応えたものである。

もちろんフレームも若干延長したから、重量が760㎏に増えたのに対応して、エンジンも13馬力SVをアルミヘッドOHVにして16.5馬力にアップで、最高速度も95km/hへと向上した。

が、ボディーも一新したのが49年、500Cの誕生である。その後、1955年まで、600にバトンタッチするまで実に65万台を世界に送り出す傑作の誕生だった。

機構面で面白かったのは、エンジンの後ろのキャビン側にラジェーターがあったこと。メイコーのオヤジさんの愛車500Cを、日本自動車ではフィアット500Cコンバーチブルサルーンの名で販売していたが、値段は80万円前後だったと記憶する。

フィアット500C:戦後再開の500Bは時代の要求から四座席に。但し後席に乗る時は幌トップを開けて頭は外にという奇抜なアイディア。そのあと完全にリファインした500Cへと変身する