【車屋四六】アメリカの珍しい純粋スポーツカー

コラム・特集 車屋四六

戦前戦後を通じて、アメリカには純粋なスポーツカーというものは無かった。もちろん、プロトタイプや少量生産のバックヤードビルダー的なものはあるが、アメリカが得意とする流れ作業による量産スポーツカーは無かったということ。

が、WWIIが終わり、欧州から帰国する軍人達が持ち帰ったスポーツカーで人気が高まると、それならと腰を上げたのがGM。1954年にコルベットが発売されると意外な人気。となると指をくわえているわけにはいかないのがライバルのフォード。で、1955年にサンダーバードを売り出した。

が、GMは一貫してコルベットをスポーツカーとして育て続けたが、フォードは数年で方針転換、サンダーバードは乗用車的になり、スポーツカーとしては徐々に魅力を失っていった。

カー&レジャー紙に、この文章を掲載したのは20年ほど前だが、その冒頭で「近頃のサンダーバードは実に平凡で、何処から眺めても面白くない車になった」と書いている。が、同時に「過去の栄光にすがって」とライバル達に揶揄された、スカイラインにそっくりだとも書いている。

話変わって、かつてフォードは世界一の生産量を誇り、アメリカ自動車市場の六割以上のシェアを越えていた時代があった。そんなフォード王国を荒らしたのがGMで、攻略成功の原動力になったのが、GMのワイドバリエーション体制だった。急速な合併吸収で大衆車から高級車までを揃えて「車を買うならGMにいらっしゃい一度で済むから何軒も回る必要はない」という販売手法の成功である。

この手法を日本で実行したのがトヨタだと思う。もっとも販売の神様とも云われたトヨタの神谷正太郎は、戦前GM日本で腕を鳴らした支配人だったのだから、ノウハウの持ち合わせは充分。振り返れば、ダットサンで頑張った日産とT型で頑張ったフォード、結果はGM流が勝ったということになる。

フォードの場合、頑固な親方と重臣達の経営哲学で、急速に発展するモータリゼーションの波に乗り遅れてしまう。で、T型からA型にフルモデルチェンジするが、時既に遅し、GMへの巻き返しは出来ずにWWIIに突入する。

戦争中は、ライバル同士も呉越同舟で戦いは一事休戦で、兵器造りに専念して終戦を迎える。で、本業に戻るわけだが、そのとき年老いたHフォードは引退して、フォード二世に指揮権が移り、経営陣は若返り、フォードの戦略も柔軟になった。

体質改善の成果が現れたのは、1949年登場の戦後開発のフォードで、我々が子供の頃から親しんできた「泥よけ」と呼ぶフェンダーが無いのにビックリした。いまでこそ、四輪ごとにフェンダーが付いていたら変な車と云われるだろうが、当時はフェンダーがないフラッシュサイドボディーの方が変な車だったのである。

コルベット/1954年登場:SCCJのジムーカーナで当時未だ米軍管轄下の調布飛行場に勢揃いの参加車。コルベット→オースチンA40スポーツ→ヒルマン。遠方にジャガーXK-120

戦前から、京橋から銀座に向かい、テアトル銀座を過ぎた初めの右ブロックに睦屋と呼ぶインテリアの老舗があった。現在のポーラと富士銀行(90年頃)の辺りである。

そこの富澤社長の愛車が新型フォードで、長男がクラスメイトだったから、何度か乗せて貰った。ジェット戦闘機をモチーフにしたラジェーターグリル、回りの車とはまるで違うフラッシュサイドボディー、大げさではなくジェット戦闘機に乗った気分ほどに舞い上がったのを憶えている。

そして、フォード陣営のマーキュリーも、リンカーンも衣替えするたびにフラッシュサイドボディーになって、どれもがヒット作品となったが、その一連の次に投入されたのが、サンダーバードだったのである。言葉を縮めるのが好きなアメリカ人が、Tバードと呼ぶ車は、FRPボディーのコルベットに対して、オーソドックスな手法と材料で開発された、二座席スポーツカーだった。

スタートで出遅れたTバードは、二つの点で有利があった。第一は、3000ドルという価格がコルベットより400ドルほど安かったこと。第二は、V8搭載ということである。

1932年当時、大衆車にV8は非常識だったが、フォードはあえて挑戦、開発に成功、搭載した。以来、フォードとV8のコンビは、強いを連想させる武器となる。昔のアメリカ映画では、主人公が悪玉のギャングなら刑事の追跡を振り切るのはフォードV8。善玉の時はギャングを追いつめる刑事の車がフォードV8ということで、誰もが洗脳されてしまった。

で、コルベット直列6気筒vsTバードV型8気筒で、気分的にはTバードの方が強いと印象が生まれる。こいつはスポーツカーの販売戦略上、強い武器となるのである。

Tバード誕生の1955年といえば昭和30年、私の大学生時代だが、終戦から10年が経ったとはいえ、東京の焼け野原は未だ復興途上で、爆撃の痕跡も消えては居なかった。銀座や六本木、原宿界隈には、駐留軍兵士が未だ偉そうに歩き回っていた。六本木、今の東京ミッドタウンの所は米国第八騎兵師団とPX。龍土町、今では国立近代美術館の所はMPの総本山、米国憲兵隊司令部。原宿から代々木、渋谷にかけては広大なワシントンハイツと呼ぶ軍人軍属の居住地区があった。

その頃になると、統制令も有名無実となり、配給の食券が無くても街の食堂で米の食事が出来るようになり、うどん、蕎麦、パンも食べられるようになり、日本人は幸せを感じ始めていた。

が、少しは元気が出てきた日本ではあったが、まだまだ貧乏で、東京での移動は都電かバス、自転車で、スクーターが買えれば、万々歳の時代だった。

でも一部には金回りの良い人達も居て、日本ナンバーのTバードが何台か東京を走っていた。もちろん、ヤミ成金かその息子達、そして芸能人達である。遠い記憶をたどってみると、ウエスタン歌手の小坂一也、ジャズ歌手の朝比奈愛子、たしか三国連太郎も乗っていたような気がする。ちなみに朝比奈愛子は、雪村いずみの妹、雪村の本名は朝比奈で、家内の実家がある大田区雪が谷で姉妹は育ったようで、学年は違うが同じ小学校だったようだ。

サンダーバード/1955年登場:大きなボディーに二座席で幌とハードトップがあり実に格好良かった。写真はSCCJ(日本スポーツカークラブ)のイベント出場のTバード。手前トライアンフTR2。3A・・・は米軍関係専用のナンバープレート