【車屋四六】ヘンリーJを知っていますか

コラム・特集 車屋四六

貴方が、ヘンリーJを知っているなら、古い車に関しては相当な通だし、生まれが昭和一桁の車大好きオジンかもしれない。

“米国随一の経済車・1ガロンで走行30マイル”と、手元に残る古いカタログに書いてある。日本のカタログなのに、燃料の単位がガロンで距離がマイルというのも、占領下の影響なのかも知れないが、1ガロンは約4Lで1マイルが1.6kmだから、燃費=12km/Lということになる。

この(写真右)B5版のカタログは、見るからにみすぼらしい。黒と黄色の二色刷だが、今ではもう見られないだろう活版刷りで、表裏二面が印刷されている。一流企業の、しかも自動車のカタログが貧しいのは、敗戦の後遺症が残る日本の経済を反映しているのだ。(ヘンリーJのカタログ:表だけ二色刷で、裏は墨一色。大三菱としてはみすぼらしい限りだ。もっともヤナセのキャデラックで墨一色というのも持っていたが、五十嵐平達に貸したきりとなった)

1953年型だから、これを入手したのは昭和28年で、朝鮮戦争の特需景気で立ち直りの切っ掛けを掴む日本経済も、未だその効果が現れない時期である。

初めてヘンリーJを見たのは、グライダー仲間の米軍将校をワシントンハイツに訪ねた時だった(現代々木公園)。其処は周囲を金網が囲み、東西四カ所の出入り口は、日本人ガードマンが厳重に警戒する別天地である。

幸いなことに私は、例の”3A84″を借りてくれば、何処の米軍基地でも自由に出入りできた。未だ空襲の焼け跡に建てたバラックが残る都心を走り、ガードマンの敬礼を受けた途端に、其処は広々とした芝生の中に平屋が点在する別天地だった。

時には、其処に暮らす金髪碧眼の美女達の、太モモあらわのショートパンツ姿が眩しかった(私は若かった)。その頃の日本男児は、女のモモが見えれば興奮するから、犯罪を恐れたGHQ(連合軍最高司令部)は、基地からの外出時“ショートパンツ履くべからず”と命令を出した。

「この小さな車、イギリス製?」「とんでもない。れっきとした米国製、デカイの造りゃいいのに変わり者が居て、そいつの名がヘンリーJと云うんだ」は冗談だが、大きいのが当たり前のアメリカ車を見慣れた眼には、どう見ても車の子供だった。

第29回で紹介のカイザー3A84、ヘンリーJは、そのカイザー・フレイザー社の開発だった。知名度が丸で無いのは、製造された期間が50~53年とタッタの四年間。こいつはフォード・エゼルなどと同様に、人の記憶に残るほどの数でもなく、またエピソードもないからなのである。

短命だった理由は、53年に会社がウイリス社に吸収されたからで、合併後にヘンリーJをベースに、エアロウイリスと呼ぶ美形に変身して、暫くは市場に流れていた。

このようなチビ車の誕生は、ナッシュ社のランブラー人気に影響されたのかもしれない。ナッシュは調子にのって更に小型の二座席メトロポリタンを発売するが、ヘンリーJ同様消えていった。

WWII勝利以後は、世界一の金持ち国らしく、小型車に市場要望が無いアメリカで小型車を開発というのは、苦しまぎれの一発で、カイザーが落ちぶれる前兆的現象だったのかもしれない。

ランブラーが人気のナッシュ社は、その後名門パーカードを吸収、更にハドソンも吸収してアメリカンモータースになり、ウイリスも吸収するが、58年にクライスラー社に吸収される。

結局、50年代のアメリカは、老舗の吸収合併の繰り返しで銘ブランドが消えていったが、この現象はヨーロッパも同様で、日本だけが例外だが、こうした傾向は将来の日本を暗示しているような気もするが。(平成元年七月頃の原稿)

ワシントンハイツで見かけたチビ車は、暫くすると日本市場でも売られるようになった。カイザー・フレイザー社と提携して、日本でノックダウンを始めたのが、三菱日本重工業・川崎製作所だった。(GHQ命令で三菱財閥が解体されて生まれた一社)

カタログに掲載の通り、ヘンリーJには四気筒2199㏄68馬力のコルセアーと、六気筒2638㏄のコルセアー・デラックスがあり、ワシントンハイツで見たのはデラックスの方。

デラックスのエンジンは、圧縮比7で、80馬力/3800回転。車重が1060㎏と軽量なので、走り感は軽快だったと記憶する。前進三段のATはコラムシフトで、定員6名。全長4626㎜、全幅1778㎜、全高1372㎜、ホイールベース2540㎜。ということで、サイズはBMW5シリーズやベンツのミドルクラスより、少々大きめという感じである。

写真(上)のヘンリーJは、たぶん内幸町で撮ったと記憶するが、隣はフォード52年型、後方にクライスラー53年型が見えるが、その間には都電のレールが写っている。

ヘンリーJがアメリカで売れなかったのは、割高だったという人もいる。当時、世界最多量産車だったシボレーの最廉価版ならば、1000ドルで買えた。当時円ドルの為替レートは360円/$だから、最廉価版とはいえ、大型乗用車が36万円、それほどアメリカの量産効果は進んでいたのである。

最廉価版と比較は出来ないにしても、標準的なシボレーに対して、ヘンリーJは一回り小さなくせに、100ドルほど高いのだから、多少装備が良かったとしても、敬遠するのは当然の理では無かろうか。