「お兄ちゃん変な車貰っちゃったの」ある日、親友の妹が、変な姿の自動車を貰ってきた。
十数年前、女性アパレルのデザイナーが「近頃は女性の体型が随分と変わってきた、特に変わったのが股下で長くなり、裾上げせずに履いて帰る人が多くなった」
ようするに格好良くなったわけだが、昭和30年代初期ともなれば、日本女の大半は胴長短足大根足と云われたものだ。足が商売道具の日劇や松竹のダンシングチームでさえ、大根足が乱舞していたのである。
が、親友の妹は、すらりと伸びきった足が見事な美人だった。そんな日本人には珍しいプロポーションのせいだろう、新車のキャンペーンモデルを頼まれ、終わったら、車をくれたのだという。
親友の妹は運転免許が無かったのかもしれないが、その車は、その日から兄貴のマイカーになってしまった。その変な姿の自動車は「富士キャビン」という軽自動車だった。
その兄貴は、慶応で高校、大学とクラスが一緒で、卒業後は銀座松屋前にあるビルの商社に勤務していた。が、ある日突然「戦闘機パイロットになる」と云って脱サラ、入隊してしまった。
飛行機乗りになろうという願望の元は、どうやら私にあったらしい。今になって、それが良かったのか悪かったのか反省している。私は、大学で航空部の主将だったが、それとは別に日本グライダークラブの会員でもあり、学生時代は二子玉川の読売飛行場を借りて訓練していた。が、昭和30年代に入ると、今はもう無い藤沢飛行場でクラブも大学も、飛行訓練をしていた。
ある日親友を、藤沢で二人乗りグライダーの前席に乗せて飛んだのが、空の病魔にとりつかれる元になったようだ。
今でも同じだろう。WWII中もそうだったが、航空隊では基礎教育中に、学力ばかりか運動能力、精神構造までも評価されて、優秀な順に、戦闘機→爆撃機→輸送機と割り振られ、外れると、爆撃手その他、操縦以外の分野に行くことになったと聞いている。
余談になるが、WWII開戦前、日本の水平爆撃の命中率を改善しようとしたのが山本五十六(後に連合艦隊司令長官)。で、山本は戦闘機と評価された、優れた人材を爆撃手にした。その後、海軍の水平爆撃の命中率は、断トツ世界トップに飛躍したという。
開戦当初、英国の不沈戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルス沈没の報に、チャーチル首相は絶句したそうだが、魚雷攻撃と共に水平爆撃隊も沢山の命中弾を浴びせたそうだ。右、左と反転しながら逃げ回る、空から見れば豆粒のような標的に爆弾を当てるのは、余程の熟練と反射神経が必要だろう。私もパイロットの端くれだから、その難しは察しが付く。
私が九州出張の帰路訪ねた奈良の教育隊、記憶では生徒が400人ほど。その中から難関を突破した数十人という操縦課程に進み、更に絞られて、十数人といわれる戦闘機パイロット要員で卒業した。在学中の付き合いで彼の頭脳の良さは認識していたが、それほど優れた運動能力の持ち主だったとは気が付かなかった。
「T33型ジェット練習機が海に墜落」と新聞記事。読むと訓練生が我が友。が、パラシュートで海上に降下、教官と共に救出されたとあって、安堵した。
「アメリカてェ国は人を食ってやがる」、“パラシュートご愛用有り難う”と、後日、パラシュート会社から、感謝の礼状とプレゼントが届いたそうだ。沢山の物が詰まった段ボールには、車に貼るステッカーまで入っていたそうだ。そして“当社のモットーは信頼性・もし具合が悪い時には即連絡して欲しい・直ぐに新品を送ります”だってさァと、大笑い。
「具合が悪けりゃ次のパラシュートなんか要らないじゃないか」。確かに、そうだと思った。
彼は念願かなって、当時の花形、F86ジェット戦闘機で飛び始めたが、その中でまた成績優秀というわけで選抜され、空中戦の勉強にアメリカに派遣され、暫くして帰国した彼の軍服の胸には、ウイングマークが光っていた。
「F86はスロットル全開で急降下すると音速を超えるんだ」音速を超えると“音速突破おめでとうございます”というわけで、F86戦闘機の製造元、ノースアメリカン社から記章が届くのだそうだ。
さて余談はさておき、話を富士キャビンに戻そう。
まず諸元を紹介しておこう。写真を見れば一目瞭然、前二輪、後一輪の三輪自動車である。もちろんカテゴリーは軽自動車。全長2960㎜、全幅1275㎜、全高1250㎜、ホイールベース2000㎜。車重414㎏。400-8-4pタイヤ。
エンジンはガス電製で、空冷一気筒二サイクル、122㏄、5.5馬力/4200回転。リアエンジンで後輪駆動だが、後輪が一輪なのでデフが不要のため、ローコストという賢い構造だった。最高速度:60km/h。燃費40km/lとカタログにあった。
この話は、次回に続く。