古い写真が出てきたが、最低な画質なのには理由がある。
「持ち歩いていたらこんなになってしまった。複写してくれよ」
財布の中でもみくちゃにされた写真だったが、ちょうど持ち合わせていたキヤノンIV S(4S)型で、机の上に置いた写真を撮った。三脚はなし、手持ちで撮ったものだから、手振れ、ピンぼけになってしまった。が、想い出深い写真なので紹介しよう。
写真を複写したのは、カメラを買ったばかりの頃だから、1954(昭29)年頃だろう。
余談になるが、8万5000円もしたのに、IV Sは欠陥商品だった。
敗戦後の昭和20年代、日本は経済再建のために外貨稼ぎが至上命令で、写真機は稼ぎ頭の輸出商品だった。昭和25年頃、オヤジが慶応高校入学を祝って写真機を買ってくれた。沈胴型のセレナー50mmF2レンズが付いた、キヤノンII bで4万5000円だった。
そのカメラの底蓋と革のケースには「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」と書いてある。言うなれば、占領地で造ったものだヨということの証明である。ちょっと屈辱感はあったが、写真機を貰ったことの方が嬉しかった。
それから3年ほどが経ち、今度は大学入学を祝って買ってくれたのが、IV Sだった。
が、オヤジの出費は4万円で済んだ。というのは、IV Sに変わったのを知った同級生が、兄貴が欲しがっているからII bを譲って欲しいと云う。綺麗には使ってはいたが中古だから値を付けられないで居ると「新品の値段で良いヨ」と懇願されて譲った。
で、4万5000円はオヤジに返したが、昭和20年代という時代は、輸出優先商品は金があっても売ってはくれない時代だった。
もうIV Sには、オキュパイドの文字はなかったが、依然として入手困難が続いていた。現在キヤノンレンズの名称は「キヤノン」だが、昔は「セレナー」だった。IV Sの50mmF1.8はセレナーと呼んだ最後の頃である。
名機ライカを模したIV Sは、前面にスロー・シャッターダイアルが付いている。それが、いつの間にか回って位置がずれるのが欠陥だったのだ。
直ぐにダイアルにストッパーが付いた、改修IV Sb型に進化した。だから、IV Sの販売は短期間なので、特に日本市場では貴重品ということになる。
我々の業界に、三本和彦なる人物が居る。TVKの“新車情報”などでお馴染みだが、元々は写真家で、カメラ業界の重鎮。ということでIV Sをプレゼントしたら、その後、麹町のカメラ博物館に寄贈したようだ。
かなり前から、カメラにはフラッシュの電気接点が付くようになった。
それが、IV Sの時代からで、II bには付いていなかったが、進駐軍の従軍カメラマンがスピードグラフィック、通称スピグラでボンボン焚くものだから、新聞社などが、またプロにも波及しはじめていた。
その頃のフラッシュは今のようなストロボではなく、電球の中に銀箔や銀の糸が封じ込められ、通電発火する仕掛けだった。
接点がないII bでもフラッシュは焚けた。単三4本を内蔵したユニットをアクセサリーシューに嵌めて、反射鏡付きフラッシュのスイッチを押すと、マグネットがカメラのシャッターを押しシンクロするという、カラクリじみた仕掛けが面白かった。
接点が装備されたIV Sのフラッシュガンは大層な仕掛けで、大きな革のケースに入って、その値段は1万8000円もした。それは、大卒初任給の2ヶ月強という高価なものである。
当時、高級カメラというと、35mm判ライカ型ではニコン、キヤノン、ミノルタ、ニッカ、レオタックスなどが想い浮かぶが、マミヤの二眼レフなどもプロが使う高級機だった。いずれにしても、昭和20年代は金が有っても買えない写真機だった。
たまたまオヤジが買えたのは、兜町という職業柄、キヤノンの総務部長が親しかったからのようである。
ということか、私のセレナー50mmは特別出来がよいレンズらしく、親しかったプロカメラマンが借りに来たものだった。へたくそカメラマンの私には、猫に小判だったのだが。
さて、大分脱線した話を元に戻そう。
写真(トップ)のパッカードは、1938年型。
その頃、パッカードの輸入代理店はポルシェやサーブも扱う三和自動車だが、現在では輸入権を失い、アウディとランボルギーニの販売をしている。
もっとも現在の三和自動車は、当時の会社ではなく、経営者が変わっている。WWⅡ後にパッカードとポルシェを扱っていた三和自動車は、戦前からの老舗で、パッカード社とは、日本満州総代理店という販売契約をしていた会社である。
戦争前の三和自動車は知らないが、戦後は今の小松製作所本社ビルの辺りで、六本木に移る前の東京日産の並びあったと記憶する。その頃の住所録では、東京市赤坂溜池七番地とあり、その右斜向かいは、ハドソンの代理店の日本自動車だった。
道草を食って遅れた、古いパッカードの写真については次回で。