【車屋四六】キャデラックより高価なパッカード

コラム・特集 車屋四六

いずれ紹介するだろうが、愛知県長久手のトヨタ博物館に、立派なパッカードが展示されている。ルーズベルト大統領愛用の39年型パッカード・ツインシックスだ。ツインシックスとは、V型12気筒の洒落た呼び名である。

いずれにしても、パッカードはアメリカを代表する最高級車で、1937年(昭12)のカタログによれば、日本で一番安い直列6気筒モデルが5750円からのスタート。

パッカードと云えば、昔から、何が何でもストレートエイトと云うことになっている。そのストレートエイトのツーリングリムジン、カタログによれば、金2万5000円也。それがどんなものかは、当時の物価と比べれば判ろうというもの。銀行員の初任給一ヶ月70円、花柳界で綺麗どころを集めて遊ぶと、一人当たりの玉代が一時間2~3円といったところである。

第23回のパッカードはホイールベース120吋(3000mm)、有名なストレートエイトでは一番安いシリーズだが、それでも当時の値段1万1450円では、庶民にはまるで無縁。そのカタログのツインシックスを見ると、値段はなく“ご注文承ります”とだけしか書いてない。上等な寿司屋の“時価”も不安だが、それどころではない。

パッカード・マーリンV12気筒エンジン。ロールスロイス・マーリンのライセンス生産で1650馬力

それではと、37年モデルの、アメリカでの値段を調べてみた。

6気筒モデル:3800㏄100馬力→795ドル~1295ドル。
ストレートエイト:ホイールベース120吋→4500㏄120馬力、1130ドル~2050ドル。
ストレートエイト:ホイールベース127吋→5100㏄135馬力、2335ドル~4990ドル。
(他にホイールベース、134吋、139インチの上級モデルが存在する)
ツインシックス(V12):ホイールベース132吋→7573㏄175馬力、3490ドル~5900ドル。
(更に上級モデルで、ホイールベース139吋、144吋が存在する)

アメリカの高級車パッカードは、ひょんな切っ掛けで、1899年に誕生した。

その一年ほど前、パッカードさんという人が、ウイントンを買い込んだ。新車を受け取り、さあ家に帰ろうという途中で、故障した。パッカードは優れた機械技師だったから、故障を直して走り出すと、また故障。で、直しては走り、直しては走り、を繰り返しているうちに頭に来た。

彼はウイントン社にUターンして、「お前ンとこの車は使い物にならない」。

ところが社長は頑固者ジジイで、素直に謝るどころか、高飛車に怒鳴り返した。「俺の車は壊れない。壊れたのは乗り手が悪いから。文句有るなら自分で造ってみろ」

それから1年ほどが経ち、徹底的に高品質を追求したパッカード自慢の車が誕生した。高品質を誇り、それに自信たっぷりのパッカードは、名宣伝文句を生みだした。

「パッカードの真価はパッカードのオーナーに聞いてくれ」

たった一言のフレーズだが「私たちはパッカードが素晴らしいなどと云って売り込みません」どんな車かは、オーナーに聞いてください、というのである。

名車パッカードの名を冠した最後の車は59年だが、その生涯を終えるまで、この名文句は使い続けられた。もっとも、名門ピアースアローを吸収したスチュードベイカーと、54年に合併した頃のパッカードに、この名文句はもうふさわしいものではなかった。

ウイントン:1896~2024。写真1898年型。パッカードが買ったのは多分このモデル

WWⅡ中、欧州戦線で大活躍したイギリス戦闘機、スピットファイアで知られるマーリン・エンジンを、アメリカでライセンス生産することになった。高度な工作精度が必要な、ロールスロイス社製マーリン・エンジンのコピーを造るために白羽の矢が立ったのは、パッカードだった。

その後、パッカード・マーリン搭載のノースアメリカンP51ムスタング戦闘機には、ドイツのメッサーシュミットも、日本のゼロ戦、疾風も追い回されことになるのだ。

古今東西、パッカードのオーナーは皆金持ちだが、写真に写る宮崎良樹は、残念ながら金持ちではない。もちろん最初のオーナーは金持ちだったろうが、敗戦後に売り出したのを彼は買ったのである。

宮崎良樹は、私にとっては、日本グライダークラブでの先輩である。

グライダーは、山の上からならゴム索で飛び立てるが、平地ではウインチ曳航か自動車曳航、飛行機曳航で上昇する。日本グライダークラブは、自動車曳航で、クラブのために彼はパッカードを買ったのだ。

車後部のフックで曳く100m余のワイヤで、グライダーは100m程の高度に達する。

現在、二子多摩川の橋の少し上流、たぶん自動車教習所のある辺りだと思うが、その辺りの河川敷に読売新聞社が使う、500m程の滑走路を持つ飛行場があり、日本グライダークラブは,其処を借りて練習していた。写真の背景に写る、見すぼらしい木造の建物は格納庫で、戦争中に建てたものをそのまま使っていたようだ。

近頃の二子多摩川あたりは高島屋などの進出で賑やかな盛り場になって、ニコタマなどの愛称も生まれているようだが、当時は国道246号線と、大井町線(現田園都市線)の橋があり、橋の手前に多摩川を眺めながら川魚を食わせる店があったが、我々は遊園地前の食堂で、20円の蕎麦、30円のラーメンなどで、空きッ腹を満たしていた。

その頃、二子多摩川遊園地の周りは畑で、戦争中は陸軍の三菱製九二式重爆撃機が展示されていた。

この爆撃機は、独逸ユンカースK-51型のライセンス生産で、日本史上最大の四発機だった。翼巾がB29より1m長い44mもあって、翼の中を人が立って歩けたそうだ。残念ながら、性能が鈍重で実戦には参加しなかったが。