【車屋四六】オーバーランドって知ってる?

コラム・特集 車屋四六

オーバーランドと云ったところで判る人は少なかろう。

ジョン・ノース・ウイリスの自動車会社創立が1903年。順調に発展し、1908年にオーバーランドと合併しウイリスオーバーランド社が誕生した。だが、生産する車はオーバーランドを名乗った。手元の資料で、オーバーランドは1939年までに、約1万5000台を生産している。

1939年(昭和14年)、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦に火が点き、日本も開戦直前らしく暗いムードが漂い始めていた。

カリフォルニアのコンクールドエレガンスで見つけた戦中のジープ

「日本人なら贅沢はできないはず」とは、オカミの国民向け標語。歌謡曲も♪上海の花売り娘♪などは情緒的だったが♪九段の母♪兵隊さんよ有り難う♪父よ貴方は強かった♪愛馬行進曲など、支那事変にからんで戦意高揚目的の歌ばかりになっていった。

さて紹介する写真は、第一次世界大戦も終わり、世の中ノンビリムードの1925年(大正14年)のホームジャーナル誌掲載の広告。オーバーランドSIXである。

3.3L38馬力。スタンダード$895、デラックス$1095とあるが、上級シリーズとして、ウイリスナイト66型3.9L60馬力$1845があるので、オーバーランドは同社の廉価版ということのようだ。

この広告掲載の大正14年、日本にラヂオ放送が始まり、読売新聞に日本初のラヂオ欄が登場する。当時、受信機の値段は、鉱石式10円、真空管式120円。日雇い労務者日当が2円ほどの頃だから、大変高価なものである。

ちなみに、葉書1銭5厘、銭湯5銭、床屋が30銭ほどの頃だ。

同年の円ドル為替レートは、2.4円/$ほど。で、真空管ラヂオは$50/120円だから、オーバーランドの$895はラヂオ18台ほど。如何に初期のラヂオが高価なものか判るだろう。

私の記事に度々登場する、放送開始初期のTVの値段も同様だ。

オーバーランドは1939年をもってブランド名が市場から消えるが、第二次世界大戦中は有名なジープの生産に専念、戦後も継続生産するも、1963年にカイザー社に吸収合併されてウイリスの名は消える。だが、ジープはカイザージープの名でその後も活躍する。

ウイリス社の遺産ジープは、更にアメリカンモータス、クライスラーと渡り歩き、いまだに健在、しぶとく生き続けている。

ちなみに、三菱がジープをライセンス生産したことは誰でも知っていることだが、ライセンスを契約した頃の相手はウイリス社だった。

三菱ジープの雑誌広告:56馬力ディーゼル仕様。製造元新三菱重工 販売菱和販売