【車屋四六】フランスの見にくいアヒルの子

コラム・特集 車屋四六

フランス人は変わり者?時たま独りよがりな自動車が登場する。乗用車を芸術作品にしようとしたのがブガッティ。

機能優先を実行したのがシトロエンだ。自動車は前進するのだから、後ろから押すより前から曳くのが合理的と、有名な“トラクションアバン”誕生が1934年のこと。

第二次世界大戦が終わると、戦中の空白を埋める自動車が必需品だが、戦後の復興期に必要なのは安価な小型車。ということで2CVの登場が1948年。この車、独創的と云えば聞こえは良いが、誰が見ても珍奇そのもの。が、登場は1948年だが、開発開始は開戦前の30年代後半だから、戦後の需要を見込んだものではない。

マニアは格好よく「ドゥーシーボー」などとフランス語読みで呼ぶが、一般的にはシトロエン2CV。大人四人を乗せ、もうこれ以上省きようがないという、簡素な造りの乗用車である。

見るからに安っぽいブリキ製乳母車みたいな2CVは、徹底合理化の産物。試作車にはヘッドランプが1個だけ、ワイパーも1本、クランクハンドルが付き出しているから多分セルモーターなしだろう。

見事に簡素な運転席:Aピラーにクランプされた速度計、ホンダN360に似た独特なシフトレバー、その上部ノブを回すと前窓がセリ出し風が入る。横方向にコイルスプリングを張ったシート

ちなみに1954年型の諸元を紹介しよう。全長3779㎜、全幅1480㎜、車重779kg。エンジンは空冷水平対向二気筒で375cc(誕生時243cc)、9hp/3800rpm。走ってみれば、非力で騒音振動共にかなりなものだった。ただし乗り心地が、独特抜群。

速く走らなくてはというような気は毛頭感じられないが、反面安車のくせに、4MTがフルシンクロというようなちぐはぐさもある。

輸入代理店はは、東京港区桜川町7番地の日仏自動車で75万円。当時は車不足時代、タクシーではさすがに壊れまくり、直ぐに路上から姿を消した。

横川金三郎、通称“金べー”さんは、横河橋梁&電気の横河時介社長の女婿で、芝浦の横河製作所社長。大学の先輩で、その工場の片隅を借り、大学航空部の高級グライダー(ソアラー)を作っていたから、毎日のように芝浦に通っていた。

或日のこと「チョット来い」と金べーさんに呼ばれた。そこに「タクシー上がりだ」というボロボロの2CV。直ぐに車は解体されて、一個一個車の部品が、床に展開図のように並べられていった。

さすが設備完備の工場、それぞれの部品は修理され、新造され、一ヶ月ほどで新品同様になる。その工程を毎日見ていたから、2CVの中身に精通することが出来た。

一枚仕立てのキャンバスルーフを手で巻き上げると青天井に、後部を巻き上げると通風良好。シートは曲げた一本パイプ一でクッション性に富み、横に張ったスプリングを間引いて体重に合わせる仕掛けが独創的だった。

最初の輸入車には速度計がなし。フランスでは「速度計が必要なほど早くない」の回答。が、日本のオカミには通じない。オプションの速度計をAピラーにクランプ固定、変速機からケーブルを繋ぎ、車検が通るようになる。

小柄だが生意気にフォードア車。リアの窓は嵌め殺し、フロントは下半分をヒンジで上部に跳ね上げる。簡単なハンドツールで、全てをばらして組み立てられる構造には、感心するほかなかった。

根元がコイルスプリングのカンチレバー型サスペンションは、前後を鉄棒で結び水平を保ちライトは水平照射を維持。でも馴れるまで、コーナリング中ロールが、恐いほどに傾いた。

乗り心地は独特であり抜群。それは背が高いブーランジェ社長の「シルクハットを被って乗降できること・悪路を疾走して積んだ卵が割れぬこと」の指示で生まれたものだった。

長寿命の末少しずつ上等になった2CVチャールストン最終期モデル

1948年パリサロンでデビュー。専門家も観客も珍奇な姿に驚いた。で“醜いアヒルの子”などと報道されたが、売り出せば人気は鰻登り。80年代末までという驚くべき長寿を全うした。