【車屋四六】ベスドラとクラウン二代目

コラム・特集 車屋四六

むかし報知新聞・自動車クラブ連盟{主催}。読売新聞・警視庁・JAF{後援}。グッドイヤー・パンアメリカン航空・シェル石油・STPグループ{協賛}、と蒼々たる顔ぶれが並ぶ{日本ベストドライバーズ・コンテスト}という大会があった。

61年/昭36から70年/昭45まで、日本のモータリゼーション促進が目的で、10年間続いて幕を閉じたビッグイベントだった。
その北海道地区予選での出発前風景の写真(トップ写真)。クラウン2台・ベレット。背景札幌パークホテル前は土のままの広場、遠くに札幌高等電波専門学校。最近を知る人には逆に新鮮に見えるかもしれない。

日本ベストドライバーズ・コンテスト、通称{ベスドラ}は、全国地区予選での勝ち残りが東京小金井運転試験場で最終選考。
まず運転技術審査は、いじめに近く、バックでクランク路通過などは「ウチの連中でも難しい」と試験官が云っていた。
三人も乗った試験官の、さらさらと走る鉛筆の音を聞きながらの難しい運転は、緊張の連続だった。
それで終わりかと思うとさにあらず。一時間で1000字の論文を仕上げなければならない。その総合評価で優勝者が決定する。

私は五回目の優勝者だが、東京地区予選は午前0時神宮絵画館前スタート・東海道を、時には裏道も走り、箱根から丹沢の林道を高速でとばす本格的ラリーで、昼前に読売ランドにゴール。
が休む間もなく、疲れ切った体でジムカーナという過酷なもの。

だいぶ長い前書きに御容赦。さて本題のクラウンだが、55年初代登場のあと、62年にフルモデルチェンジで二代目になる。
全長4610㎜、全幅1695㎜、全高1460㎜。直四OHV1897ccは圧縮比6で90馬力・最高速度140㎞・DX105万円だった。

写真のクラウンは、65年7月、2度目のマイナーチェンジ車。このとき追加されたBタイプ77万9000円は、オーナードライバー用高級車…量産効果で年々値段が低下する嬉しい時代でもあった。

オーナードライブ高級車を意識して名優山村聰をキャラクターに採用のCM

9月に待望のノークラッチ車登場。トヨグライドはトルコン主体の前進二速型で、同形式のシボレー・パワーグライドと同様にアイドルで唸るのが気になった。
加速ものんびり。米車の加速感に馴れたドライバーにはストレスが溜まる車だった。が、シボレーのほうは、大きな排気量の強いトルクで問題はなかった。

11月になると、直列6気筒のOHCエンジン登場、というようにこの頃、日本の自動車業界は日進月歩の連続だった。
が、値上がりも急で、新シリーズの2000Sは113万5000円。これを追うようにオーナースペシアル登場。それまでのクラウンは法人需要主体だから黒色主流だったが、ホワイトカラーが登場する。
翌66年、7万5000円プラスで、高性能三速トヨグライド登場。

65年は昭和40年で終戦から20年。日本経済は元気を取り戻し、長いあいだ我慢していた贅沢が、目を覚ました頃だった。
昭和41年度国民生活白書調査で、東京都在住主婦の90%が{中流}と回答。ヒットソングは{バラが咲いた/マイク真木}{ボカァしあわせだな/加山雄三}・ビートルズ来日も明るい話題だった。
クラウンが三代目になる67年、全国自動車保有台数が1000万台の大台に。そして68年には、国民総生産がドイツを抜いて世界二位に、すべてが順調発展の時代だった。