【車屋四六】マイナーと云っても傑作だ

コラム・特集 車屋四六

東北乗用車道那須インター近くの自動車博物館で、モーリスマイナー54年型に出会った。
54年の日本では、女性の体形基準が変わった。それまでの胴長短足ウリザネ顔という基準が、八頭身に変わったのである。
発端は、ミスユニバース三位に、日本人が初入選した、伊東絹子が西欧的体形だったからだった。で、彼女のシルエットを切り抜いた板を造り、そこを通り抜けられれば「貴女は美人」というイベントがデパートの屋上などで開催、人気になった。

さて、モーリスマイナーには想い出がある。自動車修理工場をやっていたころ、東宝の子会社で洋画輸入の中央映画工藤社長に、53年型を紹介したので。(中央映画は後に東和映画と合併)

合併と云えば、51年にモーリス社がオースチン社と合併でBMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)が誕生するが、マイナーは48年の自動車ショーが初舞台だから、発売当時はナッフィールド社のモーリスマイナーだった。日本の輸入代理店はでは赤坂溜池の日英自動車だった。

オックスフォード

48年といえば、大人のような声で唄う小生意気な少女が、人気歌手笠置シズ子の♪セコハン娘♪や、菊池章子の♪星の流れに♪を歌い上げて大人気、その娘の名は美空和江、後の美空ひばりである。

マイナーは、全長3760㎜、全幅1550㎜。車重789kg。直四OHV 803cc 30馬力はオースチンA30と共用で4MT。
日本ではタクシーにも使われたが、少々窮屈だった。

モーリス社からオースチン社という経過の中、48年から22年間生産されて、総生産量150万台というから大ベストセラーである。
この長寿は優れたコンセプトから生まれたものだが、その生みの親がアレック・イシゴニス、といえばもうお判りだろう。次の作品が、ベストセラー中のベストセラーになるミニである。
ミニはBMCから59年に発売されるが、59年といえば日本で名車ブルーバード310が誕生した年だった。

天才イシゴニスは、WWⅡ開戦前にナッフィールドに入社、ウイッシュボーン・サスの開発者としても知られ、次ぎに任された開発がモーリスマイナーだった。

そもそもモーリス社というのは、タイタニック号が氷山とぶつかり沈没した12年に、ウイリアム・モーリスの一号車が誕生というのだから、イギリスの老舗自動車屋である。

余談になるが、日本人のミスユニバース優勝は小島明子。初代スカイライン誕生も同じ年の57年である。
そんな57年、マイナーは、ライバル相手に戦闘力強化の目的で、エンジンを948cc37馬力と強化し、モーリスマイナー1000になる。

モーリス1000  ヒンドスタンアンバサダー

マイナーの馬力競争はこれではおさまらず、65年に1095cc48馬力になって、71年まで大衆車市場で活躍した。
ヨーロッパの大衆車同士、VWビートルとは良きライバルだった。

合併の繰り返しで大きくなったBMCの54年頃は、多種多彩なブランドを抱えていた。
オースチンA30・A40・A125・A135。モーリスにマイナーとオクスフォード。ウーズレイ。MG-TFとMGマグネット。クラシックな泥よけと革張りルーフが魅力のライレイなど、大所帯を張っていた。