もう一息で普及率48.5%、日本のTV視聴契約数が1000万台という大台に乗り、週間TVガイドが創刊された62年/昭和37年に、ロータス社からエランが発表された。
「貴女のお名前なんてぇの」算盤のリズムにのせて、おかしな司会をするトニー谷の“アベック歌合戦”がお茶の間TVの人気番組だった頃である。
ロータスには、エランの前に、姿そっくりなエリートと呼ぶスポーツカーがあった。斬新な七つのパーツからなるFRPボディーが金食い虫で、造るほどに赤字増加で頭痛鉢巻きだった。
そこで開発されたのがエラン。モノコックFRPボディーを一体成形で造る技術を完成し、儲かるスポーツカーが生まれ変わった。
トヨタ2000GTも参考にした、鋼製X型バックボーンフレームにFRPボディーで、L3683㎜xW1422㎜という車体を僅か685kgで仕上げたのである。
顔を出せばひょうきんなポップアップ型ヘッドランプは、空気抵抗を減らすためと説明する人が多いが、地上から62センチと規定されたイギリスの規則に合わせたものである。
ちなみに、ランプの昇降は電気ではなく、マニホールドの吸気圧を利用している。
水冷直列四気筒ツインカム1498ccは100馬力。フロアシフトの四速型変速機とのコンビで、最高速度180km/hを確保していた。
操安性の高さは専門家も認めるところで、世界中のサーキットを暴れ回った。日本では、滝進太郎、ボブ・ハザエイ、浮谷東次郎、三保敬太郎、服部金藏などが、GPを走った。
ロードスターでデビューのエランにハードトップが加わったのが65年。近頃はオッパイ見えてもビクともしないが、深夜の“イレブンPM”や“小川宏ショー”のTV番組に男共が夢中の頃だった。
さて、100馬力搭載のエランは、初めの22台のみ。以後は1558cc105馬力にアップして最高速度も185km/hにアップ。当時ゼロ400m加速16.9秒は抜群だった。
ちなみにレーシング仕様では、145馬力/210km/h。
開発計画でのエランは2+2だったが、チャプマン御大の決断で、二座席ロードスターで誕生したが、67年にプラスツーと呼ぶ2+2の登場で当初の夢は実現される。
TVで“スパイ大作戦”“魔法使いサリー”“トッポジージョ”などが人気だった年のことである。
2+2になったエランは従来型より全長が580㎜長く、全幅も25.4㎜広く、一回り大型になって、後席に子供が乗せられ、家族で楽しめるようになった。
が、操安性はエランらしく機敏だったが、乗り味としてはライトウエイト・スポーツカーの風味が消えて、GT/グランツーリスモと呼ぶにふさわしいと感じたものである。
好評のエランにもやがて終わりが来るのは世の常。“刑事コロンボ“ドラエモン“萬屋錦之介の”子連れ狼“が人気の73年に生産を中止。それまでに世に出たエランは1万2224台だった。
一方、プラスツーの方は5200台をもって終わったのが74年。
大河ドラマ“勝海舟”の渡哲也が肋膜炎で松方弘樹に交代、人気絶頂の山口百恵の赤いシリーズ“赤い迷路”が視聴率を稼いでいた頃である。