【車屋四六】サヨナラTバード

コラム・特集 車屋四六

97年のこと、カー&レジャー紙に“サヨナラTバード”という記事を見つけた。前年の生産量8万台、日本なら問題ないだろう売り上げだが、当時のフォードにとっては問題児。ということでリストラされたのである。

Tバード=サンダーバードの誕生は55年のこと。未だ珍しかったカーラジオから、元祖三人娘の歌声が流れてくる時代だった。
娘船頭さんは美空ひばり、ウスクダラが江利チエミ、そしてオーマイパパは雪村いずみである。

当時は未だ進駐軍の兵隊がたくさん居て、六本木のド真ん中に大きな米軍キャンプ(第八騎兵師団)やPX、があった頃。
また青山墓地の側には星条旗紙があり、厚木方面から大型ヘリの定期便が毎日飛来していた。{写真下:1955年型初代Tバード:SCCJ(日本スポーツカークラブ)イベントの参加車(右トライアンフ)3Aは進駐軍専用ナンバー}

今では日本人も得意になったが、アメリカ人は昔から言葉の短縮を好むらしく、登場したサンダーバードは、直ぐにTバードと呼ばれるようになる。
そんなTバードが開発される切っ掛けは、51年のパリの自動車ショー。GMの役員とデザイナーが、ジャガーXK-120やコンセプトカーのGMルサーブルを見て「我が社にはこんな車がない」と嘆いたのが切っかけだったと云われている。

その頃のアメリカには、終戦で兵隊達がヨーロッパから帰国時に持ち帰ったスポーツカーの面白さに魅せられて、スポーツカー市場が生まれていた。
が「アメリカ製がない」と嘆くアメリカ人のために、コルベットが54年に登場、そして55年に登場したのがTバードだった。

二台共に、当時アメリカ製量産車では珍しくも純粋二座席ロードスターだった。Tバード登場は1年遅れだったが、2944ドルとコルベットより安いこともあり人気は鰻登り。

55年1万6115台、56年1万5613台、57年2万1380台と売り上げを伸ばしていった。
が、57年のフルモデルチェンジの時期が来たとき、フォードは信じられない決断をした。スポーツカー市場から撤退したのである。

それはスポーツカー愛好家にとっては残念だったが、会社の経営という面では大成功の決断となる。
大型のスペシャアリティーカーに変身したTバードは、さらに売り上げを伸ばし続けて、77年には年間32万台も売って、フォードのドル箱的存在となったのである。

さて、話しを戻して、初代Tバードの諸元を紹介しておこう。全長1995㎜、全幅1758㎜、ホイールベース2550㎜。車重1359kgというから、アメリカ車としては小柄だった。
が、二座席ロードスターとしては世界的に大柄である。

もうサイドバルブから脱してOHVになったV8エンジンは、4672ccで190馬力、トルクタップリの戦後に開発された新鋭エンジンだった。
また、米国で一般化し始めたATのため、フォードマチックと呼ぶATには、圧縮比を上げた195馬力を用意した。

その頃のアメリカ大衆車である、シボレー、フォード、プリムスなどの性能は、100マイル=160㎞出るか出ないかという頃だったが、Tバードの最高速度は、120マイル=180㎞を誇った。

Tバードはスポーツカーからスペシャリティーカーに変身して売り上げを伸ばし、フォードの屋台骨の一本になるのだが、時が過ぎて42年間の生涯に幕を引くときが来ようとは夢にも思ってみなかっただけに、当時の心境は残念至極だった。

が、死んだと思われたサンダーバードは、2002年になり不死鳥のように再登場する。が、昔を知る者にとり、初代登場の時に感じた興奮を再現できるようなインパクトはなかった。

二代目Tバード:ここまでは純粋二座席型スポーツカーだった、奥にコルベット