【車屋四六の good days and good cars】ダットサン物語-5

コラム・特集 車屋四六

前回までで、ダットサン誕生のようすが、おわかり頂けたと思う。

また、第一話で、オースチンと日産、両社の社史の食い違いについて話した…また、官民ともに、日本には、隠したがる風習があるとも書いた。

例えば、3.11東日本大震災の時も、東電も政府も、発表したコメントが、しばらくするとボロボロと不正直が露見して、国民は眉をひそめた記憶がある。

米国自動車殿堂入りし、フェアレディーZやブルーバード510生みの親と言われる、偉大な日産社員・片山豊の名を、社史に見つけることは出来ない。

 

片山 豊 氏

 

日産社史には無く、オースチン社史にはある、両社の関連につき、古い車の生き字引と言われた故五十嵐平達も、疑問があると言う。

{火がないところに煙は立たぬ}のコトワザのように、わたしはオースチンとの関連を重視している。

英国オースチンは、謹厳実直な英国人の経営だから、何の利益もないのに、根拠の無いことを記載するだろうかというのが、わたしの考えだ。

さて、戸畑鋳物自動車部から、ダットサンが出荷されたのは、1932年=昭和7年だった。

楽団付きで弁士が語る無声映画が、トーキーになったのが、この頃だが、わたしが子供の頃は、映画のことを、大人達は活動写真と呼んでいた。

戸畑鋳物自動車部から自動車製造になり、そこから出荷されるダットソンは、痩せても枯れても量産自動車だから、販売会社が設立され、カタログも作られた。

そして、自動車製造から、日産自動車を正式に名乗るようになるのは、1933年=昭和8年、わたしが生まれた年だった。

で、ダットサンになる直前の、ダットソン時代のカタログのコピーがあり、その説明を次回にするつもりだが、昭和初期の言葉づかいは、当時の口語体ではあるが、文語体が残っているから、わたしには面白いが、今の読者は往生するかもしれない。

 

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