【車屋四六の good days and good cars】ダットサン物語-4

コラム・特集 車屋四六

前回、自動車工業と自動車製造という、ややこしい関係を話したが、どちらも自動車生産会社である。

で、ダット號の製造権を得た自動車製造は、販売会社を組織したのが、1932年=昭和7年だった。

新会社の社長・吉崎良造は、東京瓦斯電気工業の出身なので、石川島系の人物のようだ。

この通称ガス電と呼んだ会社は、大正から昭和にかけて、鉄道車両、自動車、飛行機などで、手広く活躍した会社だった。

ちなみに、世界長距離飛行記録を作った、航研機はガス電製…いすゞ自動車や日野自動車の源流・小松製作所や森精機にも関連し、陸軍の指揮官車=ちよだ=93式六輪自動車もガス電製だった。

さて、新設のダット號販売会社は、販売する車に、ダットの息子だからと、ダットソンと命名し、カタログも完成したが、発売を目前にして、突然問題が生じた。

そのころ、輸入車業界では、大手の日本自動車が扱う米車ハドソンのカタログに、ハドスンと書いてあるのが、ことの発端だった。

問い合わせると「ソンは損に通じるから縁起が悪い」というのが、答えだった。

あわてて役員会を招集…ソンをサン=太陽にすれば、損どころか発展につながるというので、目出度しめでたし、で誕生したのが、ダットサン商会だった。

これで万事解決ならバンザイだったが、一難去ってまた一難…今度はオ上からのクレームだった。

軍国主義が力を増す世の中らしく「日本の象徴である国旗の日の丸を、自動車ごときが使うのはけしからん」というのだ…ダットサンのエンブレムは太陽がモチーフだった。

{泣く子と地頭には勝てぬ}のコトワザのように、軍の反感を買っては、今後仕事に差しさわる…で、急きょエンブレムが改正され、日産コンツェルンの頭領・鮎川義助介も了承した。

 

日産コンツェルン創始者の鮎川 義介 氏

 

赤い太陽のマークには、横一文字にバーを入れ、ダットサンのロゴを入れたのだ…このデザインは、GMのシボレーのエンブレムを参考にしという。

こんな生まれだから、ダットサンの名前とエンブレムは、日産自動車とは、無関係なことが、お判りいただけたことと思う。

このゴタゴタのせいで、一時エンブレムがないダットサンが、販売されたことを付け加えておく。

さて、その後については、次回に。

 

Tagged