三菱とコルト

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ダットサン、トヨペットなどと同様、コルトは三菱自動車初のペットネームだった。コルトは代を重ね発展し、1969(昭和44)年コルトギャランになり、その2代目でコルトが消えて単にギャランになった。

そして時がたち、若者がコルトの名を忘れて21世紀になった頃、三菱はリコール隠しの風評で営業不振…ダイムラークライスラーの資本参加でロルフ・エクロートが社長になると、コルトはよみがえった。

コルト600:全長3385×全幅1410㎜・車重555㎏・強制空冷2気筒OHV・594cc・25馬力・最高速度時速98㎞・42.9万円。後部エンジン後輪駆動=RR。

そもそも、三菱乗用車発展の源流であるコルトの誕生は1962(昭和37)年だった。その前、国民車構想目標で開発した三菱500は、ダサイ姿が不評だったので、エンジンを600に強化し、美しく変身して登場したのが初代コルト600だった。

コルト800:全長3650×全幅1450㎜・車重790㎏・水冷直列3気筒・2サイクル・843cc・45馬力・最高速度時速120㎞・43万円・前エンジン後輪駆動=FR。

当時の日本は、戦後の貧乏経済から脱して右肩上がりという頃で、そろそろ自家用車でもという時代到来の直前だった。で、各社それを意識した車両開発に励んでいた。

そしてコルト600登場から1年が経った1963年にコルト1000が誕生する。当時1ℓで51馬力は高性能で最高速度時速125㎞を誇り、4速変速機がシンクロメッシュと自慢し「高速道路時代にマッチした高速安定・加速に冨み軽快な乗り心地のファミリセダン」と宣伝した。

コルト1000登場の63年には、第1回日本グランプリが鈴鹿サーキットで開催。鉄腕アトムが人気で、三波春夫の東京五輪音頭がそこら中から流れていた頃だった。また、日米初のTV衛星中継の第1弾がケネディ大統領暗殺というショッキングな場面で始まった。東京オリンピック開催の前年とあり、日本経済は加速時期に突入し、量産効果と相まって自動車業界では値下げ競争が激しく続いていた。

コルト1000DX/デザインはハンス・ブレッツナー/米:全長3820×全幅1490×全高1420㎜・車重840kg・水冷直列4気筒OHV・977cc・51馬力・4MT・最高速度時速125㎞・64.8万円/DX。運転席本間誠二は初期自動車競技会に役員で活躍・本業は著名時計師。

コルト1000は廉価版Std.56.8万円、モールディングで飾りラジオとヒーター標準装備と自慢するDXが64.8万円。ちなみに、当時のライバル達は、日野コンテッサ:54.8万円、日野ルノー4CV:49.8万円、ダイハツコンパーノワゴン:57万円、いすゞベレット:69万円、コロナ:59.8万円、コルト600:42.9万円等々。

コルト1000は開発時に余裕を持たせたので、65(昭和40)年に1500に発展しスポーティー感も強調、67年にはスポーツキットも発売する。もっとも三菱のスポーツ指向は、コルト600から発展した65年登場のコルト800ファストバックで既に始まり、その後もエスカレートし続けて、やがてパリダカ制覇に繋がっていくのである。

初代コルト600、そして三菱500は登録車ではあるが軽自動車に毛の生えたような物だから、三菱で一人前と認められる登録車の源流となれば、コルト1000とコルト800をおいて他にはないだろう。

(車屋 四六)

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車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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