日本グランプリ黎明期の戦い(3/4)

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さて、第3回日本GPに優勝するつもりもなく、トヨタ初の本格的スポーツカーを宣伝目的で出場させたが、思わぬヒョウタンから駒の結果は前話で紹介したが、トヨタ2000GTについてモ少し掘り下げてみよう。

片山豊の持論「儲からなくていい自動車メーカーにはスポーツカーが必要だ」で、ダットサンスポーツ、フェアレディとスポーツカーを育てる日産に、ヤマハから話が持ち込まれた。

ヤマハは浜松の名門楽器メーカーだが、事業の柱を増やそうと二輪事業が軌道にのると、次の目標を四輪に定めたが大願成就せず。その目標にはスポーツカーもあり、行き詰まると話しを日産に持ち込んだ。

トヨタ7:全長4020×全幅1720×全高850㎜・ホイールベース2330㎜・車重680㎏・61E-V8 DOHC 2986cc・330HP/8500rpm・ZF5MT。リヤにウイング。

高性能スポーツカーと聞くと興味を持った日産はヤマハと契約するが、理由は不明だが途中で投げ出す。その後を引き継いだのがトヨタだった。トヨタにはパブリカベースのS800しかなかったから渡りに船だったのだろう。

完成した2000GTはフェアレディを凌ぐ国際レベルな高性能車で、目論見通り宣伝に活躍し企業のイメージアップに貢献した…映画007のボンドカーに、そして日米でのレース活動、国際速度記録樹立などである。

日本GPはスプリントレースだから、プリンス380Ⅱやカレラ6より車重が500kgも重くては勝てるはずもなかった。いずれにしても合計300有余台の生産だから、儲かるクルマではなかったが宣伝目的は十分に果たしたはずだ。で片山豊の「儲からなくても…」は、皮肉にも日産でなく、トヨタで花が咲いたのである。

ポルシェ910・カレラ10:全長4100×全幅1710×全高980㎜・ホイールベース2300㎜・車重575kg・空冷水平対向6気筒OHC 1991cc 220HP/8000rpm・5MT。

さて、第4回日本GPでポルシェカレラ6に敗れた日産(プリンス)は、第5回に向けて万端の準備を始めた。その直後、FIAの規則が、グループ7がV12気筒、5000cc超え、520馬力越えOKとなり、中川良一は急遽開発目標を変更する。

いずれにしても第5回は、まれにみる激戦となり、前評判も高く、12万人の観客が押し寄せる盛況となった。私は、この第5回大会でJAF特別規則委員と計時委員を務めた。

さて中川さんは、開発にはかなり時間を要する新規エンジンは間に合わずとして、米国からムーンチューンのシボレーV8・5460ccを購入した。そして大型化したシャシーとボディーを開発して、R381の登場となる。車体開発は桜井真一郎だった。


日産R381:全長3995×全幅1840×全高845㎜・ホイールベース2470㎜・車重855㎏・シボレー/ムーンV8 OHV 5460cc 450HP・5MT。コーナリング中のリヤウイング。

後に怪鳥の異名が生まれるのはR381の走行中の姿からだが、世界初の、といっても最初で最後と思うが、直線高速時には車体全体をダウンフォースで地面に押しつける二枚の大型リヤウイングが、コーナリング時には内側の一枚が立上り車輛のイン側にダウンフォースを発生して後輪のグリップを増しローリングを押さえ、ブレーキング時には二枚が同時に立ち上がってエアブレーキとなるという、飛行機屋らしい画期的仕掛けだった。

注目を浴びた怪鳥に対する強敵は、日本で初めて誕生したプライベートチーム、瀧レーシング・オーガニゼーションのポルシェカレラ10とローラT70が、日産とトヨタに対戦することになった。T=瀧、N=日産、T=トヨタということで、TNTの対決とマスコミが囃したて、レース前から人気を盛り上げた。

日産の結果は見事と賞賛すべきもので、2位のポルシェを1周以上引き離し、参加車中唯一、80周を走ってR381はダントツ優勝した。

(車屋 四六)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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