風船爆弾って知っていますか?

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風船爆弾って聞いたことがあるでしょう。日本が開発して太平洋をひとまたぎ、8000㎞ほどを飛んで米本土を爆撃した極秘兵器です。欧米専門家が「天才的兵器」と驚いた兵器の開発中の秘匿名称は「ふ号兵器」。完成後は気球爆弾。戦後は風船爆弾になったが、兵器史上初の大陸間横断飛行爆弾だった。ちなみにドイツ軍がロンドンを爆撃したV1パルスジェットとV2ロケットは、海峡は飛び越えたが大陸間ではない。

ドイツ軍のロンドン攻撃用元祖巡航ミサイルV1:全長8.32×全幅5.32×全高1.42m・弾頭850㎏・As14型パルスジェット推力300㎏=750馬力・時速600㎞・高度3000mで航続距離250㎞/方向維持ジャイロスコープ・高度維持は気圧高度計・先端風車で飛行距離決定し目的上空でジェトを停止して落下爆発する/時速600㎞なので高射砲や戦闘機に撃墜された。ロンドンの博物館で。

1942(昭和17)年大本営の「戦争完遂の為の決戦兵器を」との要望に、超長距離爆撃機と特殊気球が登場した。前者は5000馬力6発の重爆撃機富岳、後者が気球爆弾だった。もっとも気球構想そのものは古く、1933(昭和8)年にソ連のウラジオストク攻撃目的で発案されたが、没になったもの。

が、高層気象台勤務の大石和三郎技師が発見したジェット気流で、気球爆弾構想はよみがえった。1万m前後の上空を西から東へ流れる偏西風。現在ジェット旅客機が東行きと西行きでは、飛行時間が違うのはこの偏西風のためで、時速200~300㎞という強風だ。

ふ号兵器→気球爆弾→風船爆弾と呼称を変えた日本の天才兵器:高度1万m程で偏西風にのりアメリカ本土上空でタイマーにより爆弾投下する時限投下爆弾だった。

直径10m、重さ200㎏の水素風船は、15㎏爆弾1個と5㎏焼夷弾2個を吊り下げて、アメリカ本土上空で投下する仕掛けだった。この攻撃の第一号は1944(昭和19)年11月3日、明治天皇誕生の祝日天長節に千葉県九十九里一の宮から放たれた。総計9300発といわれているが、アメリカ本土には1割ほどが到着したらしい…らしいというのは、驚いたアメリカ政府が厳重な報道管制を実施したからだ。

オレゴン州小村の牧師一家5人が死んだが、アメリカが恐れたのは山火事と細菌搭載だった。事実日本は炭疽菌やペスト菌搭載を計画したが、天皇の不裁可で中止されたのだ。今でも情報収集技術では欧米に劣る日本、当時の差はもっとひどくて負け戦が続いたのだが、アメリカの風船被害の報道管制で、日本軍は戦果なしとの判断で止めてしまった。

風船は、一の宮他数カ所で放たれたが、アメリカ軍はV1やV2同様、発射基地を探索。付着した砂などの分析をしたりしたが、意外と簡単にわかった。必勝祈願で、一の宮玉前神社や成田山のお札を誰かが風船に貼ったからだった。

風船は6尺3寸×2尺2寸の和紙600枚を、コンニャクのりで5層にはった物だが、日劇や国技館、国際劇場などで製作された。15~16歳の女学生が動員されて、昼夜12時間労働、覚醒剤を打たれながらの作業だったという。生産効率を上げるために疲労困憊する少女に覚醒剤、それを政府がやったのだから戦争とは恐ろしいものだ。

創建当時の有楽町日本劇場:直径10mもの大きな風船を貼るには大きな空間が必要で椅子を取払い板を敷き作業場が作られた。1933年開場…垂れ幕「街の灯/チャップリン」1931年アメリカ初公開だから日劇開場初上映は街の灯では。

「俺の姉も日劇で風船はってたんだ」とは、著名自動車評論家の三本和彦。三本さん自身も当時中学生で、九十九里でタコ壺を掘り、中にひそみ、上陸して上を通過するアメリカ軍戦車の底部に爆弾をはり付ける要員だったという。

「アメリカだって原子爆弾落としたんだから日本も風船爆弾に細菌仕込むべきだった」と戦後復員兵がつぶやくのを聞いたことがある。一向に聞こえぬアメリカからの被害情報で、戦果なしと判断した陸軍の情報収集力のなさ、そんなところにも敗戦に繋がる原因があったのだろう。

(車屋 四六)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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