【車屋四六】浜名湖は鰻だけじゃない

コラム・特集 車屋四六

文明開化以前、遠州と呼ぶ浜名湖のある浜松は、朝鮮渡来の秦(はた)一族が住み着いた木綿の産地、また茶の産地として知られた地域だった。

WWII以前、浜名湖を挟み豊田織機、鈴木織機と世界に誇る織機メーカーが存在した。世界的楽器メーカーのヤマハも戦後は自動車屋の仲間入り、そしてトヨタ、スズキに加えてホンダも台頭、浜名湖近在は、自動車発祥地帯とも呼ぶべき地域だった。

さて、何度か紹介済みだが、鈴木織機の創業者鈴木道雄は、少年時代の大工修行で憶えの腕を振るい、高性能織機を開発した。昼間の仕事で疲れた身体に鞭打って、夜なべで布を織る母親に楽をして貰おうという魂胆だった。

このあたりの動機は、豊田佐吉と同じで、動機は共に親孝行。はからずも浜名湖を挟んで登場した親孝行織機は、10人前の働きをする高性能。それを聞いた近在の人達からの注文が相次ぎ、織機会社を造ったのもまた同じ。

さて、自動車屋スズキ誕生は戦後だが、実は戦前に世界的傑作大衆車オースチンセブンを手本に小型車の開発に成功するが、折からの支那事変→WWIIで、軍需工場に転身で世に出なかった。

この自動車開発の動機は「我が社の織機は丈夫長持ちだから世界に普及すれば売れなくなる」その対策が「消耗品を造ろう」だった。

が、その自動車開発の技術は戦後になって花開く。二代目社長になる鈴木俊三常務は釣りが好き。冬の空っ風で辛い釣り場通いの自転車に、補助エンジンを付けたら楽だろうと開発を部下に依頼した。

自動車屋スズキの出発点は、自転車用エンジン販売からだった。写真はミニフリー号で宮田自転車に搭載されている

「カミサンの買い物を楽に」と、動機は違うが補助エンジンを開発したのは本田宗一郎。いずれにして「良かろう」と考えつくのは誰でもだが、実行するところが凡人ではないのだ。

常務のエンジン付き自転車は快調で「これは売れる」と生産、販売。それがオートバイメーカーの起点で、その後世界GPを制覇して世界的オートバイメーカーになる。

さて、原付自転車から自動二輪車メーカーとなれば、つぎなる目標は四輪自動車で、55年に誕生したのがスズキフロンテ。2サイクルの軽自動車は珍しくもないが、前輪駆動は日本初の作品だった。

当初躓いた売り上げも、フルモデルチェンジの二代目が第一回日本GPで優勝して、その存在が日本中に知れ渡ると、徐々に売り上げが伸びて会社は成長する。

67年のフルモデルチェンジで、姿を角から丸に変身。それがイタリーのミラノからナポリまで750キロ、速度無制限の太陽道路(アウトストラーダ)を、平均速度122.4km/hで走る。ドライバーは有名なF1のスターリング・モスだから、話題には事欠かなかった。

この時代、一人前と認められた軽自動車業界は、カッとびから贅沢へと転身したが、こいつが仇となる。安価な足のつもりが贅沢で高価になると、客離れが始まり、冬の時代が到来する。

写真のフロンテは、贅沢時代70年登場の四代目で、マイナーチェンジした72年のモデルだ。70年モデルは空冷エンジンなのでグリルはダミーだったが、72年から水冷になったので、写真のモデルからは風を通過して役目を果たすようになる。

1972年マイナーチェンジのスズキフロンテは水冷エンジンを搭載していた。フロントマスクが変わっただけで随分と印象が変わるものだ

当時スズキが偉いと感心したのは、排気ガス対策で他社が四サイクルに転向する中、技術を熟成させて二ストロークで頑張り、規制をクリアした唯一の二ストロークエンジンだったことである。

写真のフロンテ360が登場した72年というと、日中国交回復の親善大使パンダ人気、連合赤軍事件のリンチ殺人事件、また旧日本軍兵の横井庄一がグアムから帰国して「はずかしながら」の第一声が流行語になった年である。

コンコルドが羽田に飛来。自動車運転初心者マーク制導入。ラジオからは♪瀬戸の花嫁/小柳ルミ子♪喝采/ちあきなおみ♪結婚しよう/吉田拓郎♪女の道/ぴんから兄弟♪などが流れていたのも72年の頃だった。