泳ぐクルマと小さなアヒルと大きなアヒル

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1939(昭和14)年、ドイツ軍のポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まった。電撃作戦と呼ぶドイツ機甲師団で活躍したのが、VWベースの小型軍用車キューベルワーゲンだった。

ドイツ・シュビンムワーゲン:全長4200×全幅1620㎜・ホイールベース2000㎜・車重900㎏・空冷水平対向4気筒1131㏄・24.5馬力・最高速度/陸上80㎞/h、水上9㎞/h。

そして1941(昭和16)年になると水陸両用型シュビンムワーゲンが加わる…日本語なら泳ぐクルマだ。泳ぐクルマは、連合軍の爆撃で工場が破壊されるまでの44年8月までに、1万4276台が生産されて活躍した。

一方、キューベルワーゲンで刺激されたのが米国陸軍で、ジープが生まれたと言われている。続いてアメリカ陸軍は水陸両用車開発も企画。42年にフォードGPAダック1/4t・4×4が登場する。水上で時速9㎞…そのヨチヨチした姿でダック=アヒルと呼び名が付いた。

アメリカ・フォードGPAジープ:全長4620×全幅1630㎜・ホイールベース2133㎜・車重2018㎏・直4SV・60馬力/全生産量1万2700台。

42年=昭和17年、まだ日本帝国陸海軍は元気一杯。1月マニラ陥落、香港占領でペニンシュラホテルが東亜ホテルに。ラングーン陥落等々、日本中がラジオの前でバンザイと歓喜していた。

5月のミッドウエイ海戦も大勝利だったが、戦後に嘘報道とわかる。日本軍初の負け戦、絶対優勢の大艦隊の大敗は諜報技術の貧しさで、暗号が解読されて作戦が筒抜け、鏡を背にトランプをやるようなものだった。

名将山本五十六大将搭乗機が、待伏せた戦闘機に撃墜されたが、アメリカ軍はコース・時間すべてを熟知していたのだ。ミッドウエイ以後も勝った勝ったの報道とは裏腹に、負け戦が続いたのである。

当時、戦意高揚の標語募集での一等賞は「欲しがりません 勝つまでは」…私は小学生いや国民学校生徒だったが、通学が靴から下駄に、年々教科書の紙質が悪化し、いつも腹が減るようになっていった。

さて、フォードダックは不評だった。水上では遅く、陸上では機動性に欠けるというのだ。で、実際に活躍した水陸両用はGMが開発した水陸両用2.5t貨物DUKNだった。

フォードダックがジープの流用だったように、GMはGMCトラックベースで開発した。で、上記の型式名のDUKNは、D=1942、U=ユティリティ(水陸両用)、K=全輪駆動、N=後二軸駆動。そして兵隊が付けたダックの愛称は、戦後民間に払い下げられても通称として残った。フォードのアヒルは小型だったが、GMのアヒルは大型だった。

アメリカGM2.5tトラックDUKN:弾薬箱を積みフランス海岸に上陸するダック。全長9450×全幅2500㎜・直6 4408cc・91馬力・車重6500㎏・6軸全輪駆動6輪車・最高速度80㎞/h、水上10㎞/h。

はからずも大小のダック誕生だが、小型ダックは不評で忘れられ、大きなダックはノルマンディー上陸作戦では沖の船と陸上往復で活躍し、フランス軍に貸与されたダックはインドシナ戦線でも活躍した。

敗戦の日本を走り出した進駐軍のクルマは、軍用色のフォードとシボレー、ジープ、ウエーポンキャリア、GMCトラック、たまにダックが東京の街中でも見掛けられた。

戦後バス不足の日本にダック400台が払い下げられ、旧中島飛行機伊勢崎工場=後に合併で富士重工になる富士自動車で、斬新モノコックボディーのバスに生まれ変わって活躍した。また、水陸両用の特技を生かし、観光バスに仕立て直されて世界中で活躍、日本でも神戸ハーバーランドで観光に一役買っていた。

(車屋 四六)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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