いすゞが暴れまわっていた頃

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いすゞは、GMファミリーになったときに乗用車生産を止めてしまったが、GMと手が切れても復活はなかったのが残念。そもそもいすゞの源流は、石川島乗用車製造所で、1916年創業だから日本では老舗中の老舗。今でも貨物自動車、バス、ディーゼルエンジンでは世界的に名が通っている会社である。

乗用車はヒルマンに始まり、ベレット、117、ジェミニなど人気車を造りながら、レース活動にも力を入れていた。

1969/昭和44年、日本のオートスポーツは加熱し、日本グランプリ(GP)レースは、前年からのTNT対決をそのまま引きずっていた。T=トヨタ、N=日産、そしてプライベートチームのT=滝レーシングの対決だった。

振り返って、65年に鈴鹿から新設富士スピードウェイに移った日本GPは、プリンスR380と実質トヨタといわれた、プライベート参加のポルシェの一騎打ちで大いに盛り上がった。そして68年になると、日産R381、新開発トヨタ7、そして新組織された滝レーシングが参加し、マスコミはTNT対決と書きたてた。

その対決が69年に持ち込まれ、そこに新規参戦したのがいすゞ。いすゞの新鋭2機種はミドシップ型2座席でR6とR7だった。

いすゞR6:ベレット1600GTをベースに開発された。
いすゞR7:シャシーは当時世界のレースで人気のローラを参考にシボレー5ℓ・V8をムーンチューンで500馬力。予想に反して期待には応えてくれなかった。

R6はベレットGTベースで仕上げられ、1.6ℓDOHCはチューニングで180馬力に。R7は世界で定評があるローラMK-Ⅲを手本に、シボレー5.0ℓ・V8がムーンチューンで500馬力だった。

が、R7は戦前の下馬評でかなり期待が持たれていたが、期待のスピードが出ず惨敗したのは準備不足といわれている。

秋のカンナムレースでは、完走率が高い浅岡重輝の操縦で、6位入賞を果たし、翌70年の鈴鹿500㎞レースでも浅岡2位、津々見友彦4位と、クルマの熟成と共に徐々に成績を上げていった。が、いすゞのレース活躍は、残念ながらここまでだった。

話変わって、いすゞは貨物自動車分野では老舗で、ディーゼルには定評ある会社だが、乗用車市場参入は太平洋戦争の後。英ルーツグループのヒルマンのノックダウンから始まった。日産のオースチンからブルーバードというように、いすゞもヒルマンで学習が終わるとベレットを開発し世に出した。

そして、ベレットベースのジウジアーロデザインの117クーペとセダン(フローリアン)が生まれ、クーペはピアッツァに発展する。がGMの方針で乗用車生産を中止、ドイツGMのジェミニ輸入でその穴を埋めるが、GMと袂(たもと)を分かつと、ジェミニの後継モデルを自社開発した。

ピアッツァ初代モデルのCM曲は阿川泰子の「シニアドリーム」。45回転ドーナツ盤レコード:117クーペの最初のカタログ写真は、篠山紀信というように宣伝には金をかけていた。

一方で、四輪駆動のビッグホーンを開発する。この分野の先輩ランクルとサファリと競合を避けるために、前二車は作業車感覚だが、いすゞはビッグホーンを、乗用車感覚で軽妙洒脱に仕上げた。残念ながらいすゞの販売力では大量に売れなかったが、すぐに2匹目のドジョウが登場する。それがRVブームの引き金となる三菱パジェロだった。

いずれにしても、真面目なクルマ造りで上質、丈夫な乗用車を提供してくれたいすゞの乗用車が消えたことは、至極残念な出来事だった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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