片山豊ことオトッツァンは「自動車屋は儲からなくてもいい、スポーツカーが必要」という。そのスポーツカーとは、高性能不要、贅沢不要、走る楽しさが味わえれば良いという。
前回紹介の第1回全日本自動車ショー出展のダットサン・スポーツDC-3を、日産はスポーツカー第1号と称しているが、1号には間違いないが、この企画も片山さんだった。
ここで登場するのが太田祐一。ダットサン號の好敵手だったオオタ號の製造元高速機関のオーナー太田祐雄の長男で、父の元でデザインの腕を振るい、戦争中は帝国自動車で「くろがね四起/軍用4WD=和製ジープ」を開発、戦後独立してワイドフィールドモータースを創業した人物。片山さんはダットサンをベースのスポーツカーを太田祐一に発注して、ダットサン・スポーツDC-3が誕生した。
物知り顔にMGにそっくりなどと揶揄するやからもいるが、MG、モーガン、シンガー、スタンダードなど、戦前から戦後初期の英国製スポーツカーの姿は皆似たり寄ったりである。いずれにしても片山さんの企画でDC-3が生まれ、Zにまで繋がる日産スポーツカーの源流になったのは確かな事実。DC-3は太田祐一の会社で150台作られ、日産は珍しくもこれをカタログに載せ、正式に販売することになった。
私の知人でDC-3のオーナーが数人いる…新聞社出身の金子昭三は自動車評論家の長老で、自動車評論家集団、RJC=自動車研究者ジャーナリスト会議などの会員として活躍、我々には先輩であり御意見番でもあった。
もう一人は、オトッツァン一の子分、ケン坊こと佐藤健司。慶応大自動車部出身、浅草育ちの貿易屋。SCCJ。更にNDC=日本ダットサンクラブの吉田孝夫もオーナーだったと記憶する。
おっと肝心な一人を忘れるところだった…DC-3生みの親のオトッツァンだ。「スポーツカーだからスピードが出る、出足も速いだろうという質問は愚問に属する」と書いている。
その一文に「私の愛車は39年式ダットサン860cc・20余馬力の酷使に耐えるよう改良補強、前輪スプリングを伸ばしダンパーに結びつけ単純機構ながらも乗り心地上々…白バイいなければ7~80㎞は出る。太田祐一設計のランブルシート付四座幌型は二座席のMGより融通が利き、家族の行楽にも便利。ハンドルは太田祐一がカエデ材を夜なべでコツコツ磨き上げたレース用特別仕上げの逸物で、今では脂と汗が程よく染みこみツヤが出て何ともいえぬ風味だ。1カ月5000円もあれば燃費充分ということも私がこの車を愛する理由でもある」と、書いている。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。