博打の街ラスベガスにインペリアル自動車博物館がある。同名ホテルの五階が展示場だ。ホテルの下は賭博場だからオーナーのRエンゲルスタッドの収集資金は潤沢なのだろう。
今回は展示車から三台を拾ってみた。先ず米国の自動車史上最上と誰もが認めるデューセンバーグ1934年型四ドア・フェートン。
ドイツ生まれのデューセンバーグ兄弟は、レースが大好きで、航空発動機やレーシングカーを造り始めて、先ずフランスGPで米国車初優勝。さらにインディー500レースでは四回優勝。その技術を活かし高性能豪華車の製作に没頭した。
ちなみに1932年発表のSJ型は直列八気筒・6.882cc・320馬力・最高速度は200㎞を超え、ハリウッド大スター御用達と云われた。
デューセンバーグは1929~37年と短命だった。
Eコードは、傾いたオーバーン社を再建、倒産したデューセンバーグや発動機のライカミング社を買収というらつ腕経営者だった。
コード社は30年代半ば市場不況のせいで売れ行き不振になると1936年に起死回生を狙い発表したのが810型で、先ず伝統的ラジェーターグリルが消えて斬新きわまりないルーバーが取り囲む姿がユニークで、発動機は傘下のライカミング社製V型八気筒4730cc・125馬力で、前輪駆動方式だった。
810型は成功して、37年に812型に進化するが、こいつはスーパーチャージャーで160馬力になり最高速度も160㎞と向上。モデルは成功したが、会社は不況の波に飲み込まれ倒産した。
ピアースアロー66型:1920年頃は、フォードT型やシボレーなどが$300で買える大衆車が普及する一方で、$5000超の高級車で金持ちが競いあう時代でもあった。そんな時代に活躍したピアースアローは、運転手が素早く降り後席ドアを開けやすいよう右ハンドルに固執し21年迄、米国で頑固にこだわった会社でもあった。
創業は1904年/明治37年で、米国東部の金満家御用達らしく、高級車だが保守的車造りを続け、13年に登場の後半をフェンダーに埋め込んだヘッドライトデザインがトレードマークでもあった。
人気はあったがやはり市場不況から逃れられず38年に消えた。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。