ニュージーランド/NZは中古、いやクラシックカーの宝庫である。
それも展示ではない。街中を1950年代頃からの世界の車が日常の足として走っているのだ。
特に日本製乗用車が多いのだから嬉しくなる。聞くと、古い車が好きだからではないようだ。「湿度が低いから錆びない・舗装率が高いから痛まない」が理由だそうだが、関税のせいで安い中古車が輸入され、故障が少ない日本製の人気が高いと云うのだが、英国同様左側通行ゆえ右ハンドルの日本製が受けたこともあるだろう。
1998年、そんな国のクライストチャーチの街を散歩している時に、ふと出会ったのがVWカルマンギアだった。1958年型を乗っていたことがあるので、特に懐かしかった。
VWは、1938年「我等はアウトバーンを作り其処を大衆の誰もが走る車も作る」と宣言して、ポルシェが開発したものだ。
が、39年ドイツ軍ポーランド侵攻で、VWは兵器工場になり、連合軍の爆撃で壊滅し終戦を迎える。
終戦で勤勉な従業員は瓦礫を片付け、残る部品で組み立て開始。在庫部品が無くなる46年に、新規VWを完成出荷した。
ヒトラーが名付けた勤労国民車=Kdfが、真の国民車=フォルクスワーゲンに生まれ変わったのである。
このVWは鍍金も省かれた質素丸だしだったが、49年にクローム鍍金の輸出モデルを加えて、世界に向けて快進撃が始まるのである。
51年になると、更に上等なカブリオレが追加されるが、これがコーチワーカーのカルマンとのコラボの始まりだった。
そして55年に伊ギア社デザインのカルマンギアが誕生、57年からカブリオレも追加された。
59年頃になると米国を意識したのか、ライト位置が上がり、前方の空気孔がルーバー状からプレス部品の鍍金になり、鰹節状ガードが二個のバンパーになるから、写真の赤い車はその時代のものだろう。が、立派なバンパーは後からのような気がするが如何なものか。
私が乗っていたのは58年型で、日本に輸入された8番目だったが、バンパーはストレートだった。このタイプは59年迄生産され、その後65年迄の男性的姿に変身するが、美しさということでは、初代が一番だと思っている。
私が乗ったカルマンギアは、当時日本人は買えない輸入車で米人名義だったが、ヤナセに注文時に実物はなく、カタログの姿からスポーツカーと思ったのが浅はかだった…ヤナセで受領し、走り出した途端に、普通のVWビートルなので落胆した。が、人目を引くことだけが取り柄で、充分に満足することが出来た。
その性能は、空冷水平対向1192cc・30馬力・車重820kg・最高速度118粁・ゼロ100粁加速35秒は、当時の水準では充分だった。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。