飛行機と自動車、どちらが速い?などと聞いたら小学生にも笑われるだろうが、1910年頃迄なら自動車の方が速かった。
飛行機の100km/h到達=1910年のブレリオ/ノーム100馬力。200km/h到達=1913年ドペルデュサン/ノーム160馬力。300km/h到達=1920年英戦闘機ニューポールというように、WWⅠまではどう転んでも自動車の方が速かったのだ。
バイクだって飛行機に負けなかった。例えばベルギーの1906年型FN/412cc・3.5馬力は64km/h。同年公認の飛行機サントスデュモンのアントワネット/50馬力は41km/hだった。
1911年のTTレース優勝のバイク・インディアン/584cc・3.5馬力は102km/hで、ほぼブレリオと同速度だが、プジョー三輪498cc・15馬力は120km/hに達している。
結果、飛行機の進化はWWⅠという戦争で、それ以前の自動車はレースで進化したということである。で、レースとなれば、忘れちゃならないのが、ニューヨーク・ヘラルド紙の新聞王ゴードン・ベネットだ。
ベネットが自家用ヨットで、といっても2000トンというから駆逐艦サイズだが、それで地中海を遊びながら、ふと思いついたのが自動車レースだった。で、1900年第一回ゴードンベネット・トロフィーがパリ→リヨン566㎞で開催され、パナールが優勝した。
出場車の姿が競争車スタイルになり始めたのはこの頃からで、それは丁度陸送中のトラックシャシーのような姿だった。
その本格化は1902年パリ・ウイーンレースの参加規則だった。排気量無制限・車重1屯以下…ということで出場車は皆あたまデッカチに。100km/hを越えたというパナール70馬力車は四気筒とはいえ1万3800ccというモンスター、それを1屯内に収めようとすれば、外せるものは全部取っ払って仕舞わなければならず、結果、四輪の上に発動機+運転手という姿に。
が、モンスターぶりは更にエスカレートし、必然的に加速と速度上昇に反比例するように操安性が低下した。レース中しばしば140km/hを越えたモース1万1600cc車参加の1903年パリ・マドリッド1340㎞レースは、政府がボルドーでレース中止を命じた。
高速車が増え(自動車216台にバイク60台)になり、危険率上昇が原因だったが、実は観衆の事故が増えたのである。
未舗装路の疾走で砂煙が巻き上がり視界不良の中では、街道並木のてっぺんを見て「このへんが道路中央」の見当で走る。一方無知な観衆は視界不良の中で見ようとするから前に出る、結果、道幅は2~3mに…そんな人垣の中を時速100㎞以上で駆け抜けるのだから、事故発生当然という状況になってしまったのだ。
当時のボルドー、見慣れた馬車道に見慣れぬ自動車が走れば興味津々で事故多発…で、1894年に始まった都市間レースに幕が引かれ、以後レースの中心はサーキットに移ったのである。
ちなみに、その後アイルランドで開催のゴードンベネット杯にイエリネックがメルセデス60馬力で出場、優勝している。
このゴードンベネット杯争奪戦運営を任されたフランス自動車倶楽部は、1905年の都市間レースを最後として、新しいグランプリ開催に向けてスタートするのである。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。