【車屋四六】パッカードとヒルマンを絵解きする

コラム・特集 車屋四六

古い写真を虫眼鏡で見たら、右奥の看板が東京銀行だから、通り右側は日本橋本石町で左側宝町。推測すれば右手前は日本銀行、左側が三越で手前は三井本館、見えないが更に手前は小西六のはず。当時も一方通行で、進行方向も今と同じだ。

年代を知る手がかりで自動車は有り難い…右のパッカードは53年型、左ヒルマンミンクスは初期型で52年型、また遠方のアメ車も52年頃のようだから、写真は53年以降ということになる。

多分、撮影は55年/昭和30年前後だろう。当時のナンバーは横長で、まだ都市地名はない。大型車は3-、小型は5-で、パッカードは3-6153、ヒルマン5-4054…ちなみに私のオースチンA40サマーセット54年型が5-8453だったから、年代推測は正しかろう。

いすゞヒルマンのノックダウンは53年、写真のグリルは初期型52年で諸元は全長4050㎜全幅1613㎜、WB2362㎜。直四サイドバルブ1265cc38馬力。コラム4MTのフルシンクロが自慢だった。前輪Wウイッシュボーン・後輪リーフリジッド。燃料タンク33ℓ。

50年前後まで英車は戦前の姿を引きずっていたが、ヒルマンの姿は飛び切り斬新…それもそのはず、スタイリングが米国でトップ人気のレイモンド・ローウイと聞いて納得した。
彼の作品で、前後不明で話題のスチュードベイカー、そして煙草のピースで、日本人も知っている有名デザイナーだった。

ヒルマンという会社は、1907年創業の老舗だが、78年英国クライスラーに吸収されて、伝統のブランド名は消滅した。
WWⅡ後、ヒルマンの輸入元は、東京赤坂田町の伊藤忠自動車で、ハンバー、サンビーム、コンマー(商用車)などの英車を輸入、54年型ヒルマンミンクスMK-Ⅳが103万円だった…大卒初任給9000円前後の頃の話しだ。

さて、英国の大衆車ヒルマンの隣に駐まっている米国高級車のパッカードだが、WWⅡ以前は、キャデラックの地位を凌ぐ高級車で、世界の王侯貴族金満家御用達で、天皇家も愛用した。

皇宮警察官が乗り名時神宮外苑を走る戦前購入の宮内庁パッカード

戦後の輸入元は、赤坂溜池の未だ奥村さんが買収する前の三和自動車で、パッカード、BMW、アームストロングシドレイ、そして売れないとセールスが嘆くポルシェを輸入していた。

53年頃のパッカードには、WBが3050㎜の200シリーズと3175㎜の400シリーズがあり、写真は短い方のようだ。もっとも、短いと云っても、全長5.5mと聞けば、どう転んでも高級車である。

エンジンは戦前からの直列八気筒サイドバルブで、4608cc160馬力、三速MTが斬新なコラムシフトは米車の定番だが、オプション

50年頃、世界に先駆けて市販開始の米国製ATは、各社各様に型式が異なり、唸るが加速が悪いシボレーのパワーグライド、トルコン重視で燃料大食らいのビュイックのダイナフロー、ポンティアック、オールズモビル、キャデラックの歯切れ良いハイドラマチック、GM一だけでも三形式あり、フォードマチック、クライスラーのパワーフライト、その他大勢ある中で、パッカードのウルトラマチックは最も歯切れ良く加速良く、米国最高のATだったと思う。

写真のパッカードには運転席に人影が。多分主人待ちの運転手だろう。ヒルマンにも後席に二人の人影、英国では大衆車だが、日本では運転手付の高級車扱いだったのである。当時、戦後の後遺症から脱したとはいえ、日本はまだまだ貧乏だったのだ。