高田嘉七は1931/昭和6年生まれ。昭和31年頃毎晩通う銀座のドイツ人経営ビアレストラン、ゲルマニアで知り合った50年来の友で、高田屋嘉平の七代目の孫なので嘉七なのだ。
司馬遼太郎{菜の花の沖}の主人公嘉平は、江戸豪商十傑では紀伊国屋文左衛門より上位の函館の豪商。{これより日本}と樺太に杭打った間宮林蔵は、高田屋の船で樺太に渡っている。
嘉七の家で見たが国後・択捉出店番頭の大福帳には、海産物の上がり金五万両、また御年玉覚書には松前殿様五両・奥方様三両・御家老様…などと100両近い金額が記されていたが、これじゃお殿様も頭が上がらないだろうと思わず笑ってしまった。
私が1956年型シボレー・ベルエアを買ったら「裏磐梯の紅葉が綺麗」と誘われ出かけたことがある。当時シボレーの品揃えは、150・210・ベルエア。最上級ベルエアには、2&4ドアセダンとハードトップ、ステーションワゴン、コンバーチブルがあり、写真の4ドアセダンだけで年間26万9796台、当時シボレーは米国では人気の世界最大生産量を誇っていた。
直六SV3768cc/140馬力とV8OHV4340cc/162馬力。(オプション+$189のパワーグライドAT車は170馬力/$1=360円)。
パワーグライドATは、トルコン優先の二速型で加速緩慢、Nレンジで唸るのが特徴。初代クラウンやパブリカのトヨグライドが同形式だが小排気量らしく更にイライラがつのった。
写真のシボレーが生まれた56年/昭和36年、白井勇次郎発明のオルガノーゲンで、簡単にオッパイを大きくできるようになった。人気俳優宍戸錠が頬をふくらませて話題にもなった。
当時は女性美容手術が流行し、隆鼻手術1万円は大卒初任給一ヶ月分だが、胸は二つだから更に高かったろう。また湘南海岸を闊歩する女太陽族の間では脇毛脱毛が流行。太陽族/石原慎太郎が芥川賞受賞、その映画化で弟裕次郎の銀幕デビューも56年だった。
さて親友嘉七は、2012年に79才で亡くなった。嘉七のこと、嘉平のこと、興味あればネットで検索すれば面白い話しがたくさん出てくるはず。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。