日本のベストセラーカー「カローラ」世界に羽ばたく

コラム・特集 車屋四六

日本最初のベストセラーはダットサンで次がブルーバード、更にサニーと続くが、日産独占は此処までで、サニーの王座を半年後に奪ったのがトヨタ・カローラ、昭和41年/1966年だった。追いつけ追い越せ・打倒日産はトヨタの念願だった。

人呼んで66年はマイカー元年。戦後25年が経ち敗戦の後遺症も街から消えて、我慢を知らない戦後生まれの若者達が反戦歌を歌い大学紛争に精を出していた頃である。

元気を取り戻して収入も増えたサラリーマンに、自家用車でもという時代到来だった。が、国鉄初乗運賃20円、牛乳1本20円、大卒初任給2万円の頃としては高い買い物だった。

が、既に軽自動車やパブリカなどで一部サラリーマンは楽しんでいた。パブリカは第七回全日本自動車ショーに登場、翌年38万円で売り出され、小型車が4台売れれば1台はパブリカと云うほどの人気を得たが、直ぐに右肩下がりに転じた。
開発した長谷川龍雄は「経済発展が急で簡素実用一点張りの時代は過ぎた」として、上級モデルの追加で頑張った。

長谷川龍雄:1916~2008鳥取生・帝大工学部航空学科卒・立川飛行機で高高度戦闘機開発・終戦でトヨタ入社・トヨエース・パブリカ・トヨタS800・セリカ・カリーナの各初代開発主査

そして開発に着手したリッターカー/KE10型がカローラだったが、完成間近でサニーがプレキャンペーンを終え先行発売、好調な滑り出しを見せていた。が、カローラの発売はどう急いでも半年後。で半年のハンディーを福に転じる策を考えたのである。

それはエンジンの拡大作業で、1Lをぎりぎり1077ccに拡大。初めから1.1Lの開発なら下2二桁は77ではなく、こよなく99ccに近くなるはず、という急場シノギの作業の様子が目に見えるようだ。

一方、軽量化とコスト低減目的の前輪ストラットには手を焼いていた。手本の英フォードコンサルが日本の悪路で故障続出という前例もあり、内製ダンパーで欠点克服、英国より頑丈なストラットを内製で完成した…「ダンパーはエンジン同様重要部品ゆえ外注まかりならぬ」と、豊田英二副社長の決断で内製決定、当時はダンパー外注は常識だった。

幾多の困難を克服して、カローラ第一号車の高岡工場ロールオフが66年9月24日。サニーに遅れを取ること半年…さあ出陣、この時のためにトヨタは周到な準備を整えていた。

先ず販売網の整備と強化で、発売開始時点で実に199社を準備していた。そして自動車史に残る、有名なキャンペーンを開始した。
一号車ロールオフ前の9月7日新聞などに{トヨタ・カローラ1100}・気になる姿・性能・値段を謎のままに{プラス100ccの余裕}と付け加えた…あえて1Lを1.1Lにした理由は此処だった。

広告には{ハイコンパクトカー}の文字もあり、サニーより格上高級という認識が浸透した頃を見計らったのか、10月20日報道記者発表が開催された。
その後は御存知の通りで、たちまちサニーから小型車市場の王座を奪い、何年も続く王座の確保は記録的で、やがて世界に進出すると、ついにはVWを抜いて世界の王座にも座るのである。

カローラのプレキャンペーン用広告:すべて謎のままで高級上等感を浸透させた、いわゆるティザーキャンぺーンの成功例。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支 離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格 審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち 」「懐かしの車アルバム」等々。

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