誰だってレースは勝つ意気込みで参加するものだが、優勝には貪欲なトヨタが、勝つつもりもなく参加したビッグレースがあった。
1966年5月3日の富士スピードウェイ、午後1時30分頃の写真は、日本GPスタート直前のグリッド。奥のゼッケン12は北野元のフェアレディ。17は、慶大を卒業したばかりの福沢幸雄のトヨタ2000GTだが、手前のヘルメットは福沢でなく、トヨタRTX(後のコロナ1600GT)に乗るチームメイトの田村三夫。
が、このレースの主役はトヨタでも日産でもない。
生澤徹・横山達・大石秀夫・砂子義一が乗るプリンスR380vs滝進太郎のポルシェカレラ6で、GP二度目の対決だった。
激闘の末、R380がカレラ6を制する話は有名だが、本題のトヨタ2000GTに話を戻そう。
65年秋の東京モーターショーで産声をあげた2000GT出場の目的は優勝ではなかった。そもそも開発目標自体は利益追求ではなく「トヨタの技術ここにあり」と世界に発信することだった。そのころ時日本の自動車造りは世界に追いつけ追い越せと躍起の時代だった。
が、レースが終わってみると、入賞など眼中になかった2000GTが金星を射止めるのだから世の中不思議なものである。予想もしなかった三位入賞は、チームの大将格ベテランの細谷四方洋だった。
常に優勝が目標のトヨタが三位で金星というのには理由がある。
そもそも車重が重いからスプリント競技は苦手、本来得意は耐久レース向きなので、GPでの入賞など考えてもいなかったのだ。
それはGPの一ヶ月後に証明された。JAF派遣審査委員長を私が務めた鈴鹿1000km耐久レースでの優勝である。ちなみに優勝ドライバーは福沢幸雄、津々見友彦のコンビだった。
余談になるが、GPでの一騎打ち、性能ではカレラ6だが、給油時間の差で勝負が付いた。レース序盤は職人技冴える生沢のブロックにあったポルシェが、ようやくかわしてトップでピットイン→給油→コースに戻ると、抜いたはずのR380が前方を走っている。
首をかしげても後の祭り…原因は給油時間差…カレラ6は50秒、R380は15秒。プリンスは給油タンクの位置を高くして重力差で圧送し時間短縮、ファクトリーとプライベート、知恵の勝負だった。
が、性能差でトップを奪い返せたのに、遅れた瀧はあせったのが命取り、最終コーナーでコースアウト→クラッシュ→リタイア。
さてトヨタ2000GTは、67年3月鈴鹿500km、4月富士24時間、7月富士1000㎞、鈴鹿12時間、10月鈴鹿1000㎞、翌68年も負け知らずに優勝を重ねて引退…俗に云う「勝逃げ」である。
一方、米国ではシェルビーでチューニングされた3台が活躍したが、圧巻は谷田部高速周回路での世界速度記録の挑戦…幾つもの世界記録を樹立、加えて映画007でボンドカーにと、日本ばかりか世界にトヨタの存在と技術を誇示して、開発目標を達成したのである。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。