デュオ・ダイナ・エア・クーリングシステム=DDACなど云っても判る人は少なかろう。本田宗一郎が開発した画期的高性能エンジンだった。
この頃のホンダは、二輪では既に世界の一流で、次なる目標は四輪市場進出だった。その先駆けが軽自動車N360で、高性能と安価でアッという間に軽市場の王座をスバル360から奪った。
で、次の目標が登録車で、その先兵がシビックと思っている人が多いようだが、その前に画期的高性能車があった。素晴らしい野心作だったが、営業面では失敗作で歴史の中に埋もれてしまった。
そのホンダ1300の初舞台は1968年/昭和43年の東京モーターショーで、翌年から市販が始まった。居住性抜群のセダンと如何にも速そうなクーペの二種類があったが、特に専門家の関心は、「DDAC」と名乗る何やら訳の判らぬエンジンだった。
当時ホンダがワークス体勢で挑戦中だったF1は、常識的水冷エンジンのRA301と強制空冷のRA302の二車種体勢だった。が、ホンダの空冷はポルシェとは全く違う形式だった…もっとも同じ形式だったら話題にはならないが。
この空冷形式がDDACだが、レーシングカー用としては失敗作となった。が、その技術で誕生したのが1300だったのだ…100馬力/7200回転という性能は1.3Lでは世界でも驚異的出力で、更に四連装キャブ型の115馬力7500回転、最高速度185km、0~400m加速16秒は、2Lクラスを上回る驚異的速さだった。
「水冷は加熱された湯を空気で冷やすのだから、エンジンを直接空気で冷やす方が単純合理的で軽量化にもなる」とは御大本田宗一郎。試乗後「素晴らしい」と云ったら「そうだろう」と嬉しそうに笑っていた。
が、褒めたのは専門家ばかりで、一般ユーザーには不評だった。高回転髙出力エンジンらしく、ピーキーな神経質さが災いして、上手く乗りこなせなかったのである。
で、115馬力を110馬力にディチューンし、低回転トルクを増大し、乗りやすくしたつもりも一般ユーザーには通用せず。ついには水冷にまで改めたが不評は解消しなかった。
四気筒を箱で囲んで間に空気を送って冷却するDDACは、水冷と間違うほど騒音も低く、腕がよいドライバーには楽しい車だったが、二輪と軽自動車では成功したホンダの技術優先・性能至上主義は、登録車への初陣では失敗不成功に終わったのである。
で、ポリシー180度転換で誕生したのがシビック、72年だった。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。