【車屋四六】知名度上昇するも売れないスタンザ

コラム・特集 車屋四六

スタンザが誕生した77年頃の日本は、敗戦から32年、長年の貧乏経済から脱して、自家用車も増え、車の多様化も始まった。
{スタンザ}=イタリア語で{部屋}。ちなみに写真機の語源である{カメラ}もイタリア語で{部屋}である。

当時日産の下位モデルはチェリーそしてサニーだが、上級移行したブルーバードの間を埋めるモデルが必要になり、登場したのがスタンザだった。
スタンザは輸出もされて、アメリカでは日産スタンザと呼ばれ、クエートでは日産リベルタと呼ばれていた。

77年二代目にフルモデルチェンジしたバイオレットがコンポーネンツを共用したから、+オースターで三兄弟となる。
日産ではオースターはスポーティー、スタンザはスポーティーな中に若々しさと豪華さを追求したと説明していた。

スポーティーに仕上げたオースター

日産は、三兄弟の長兄バイオレットをラリーに投入、その活躍でイメージの盛り上げを図った。で、サファリ、サザンクロス、オーマンなど著名なラリーで総合優勝を重ねていった。

スタンザ誕生は77年で、4ドアセダンだけという単純車種構成(当時はセダン全盛時代)で、価格は94.6万円~117.7万円。
ラリーの活躍で世界での知名度は上がったが、それが日本での売り上げには結びつかなかった。

77年2万4601台、78年4万6055台、79年3万4501台。
低迷する売上げにテコ入れとばかりに、79年に投入したのがファイブドアハッチバック/写真だった。

このタイプはバカンスなどの使用でヨーロッパでは人気があったが、日本でスリードアは認知されていたが、ファイブドアの投入は時期尚早というより、その後も長い間認知されなかった。

スタンザのサイズは、全長4325㎜、全幅1605㎜、全高1365㎜、WB2400㎜。車重1040kg。ファイブドアの全高はセダンより25㎜低く仕上げたからスポーティー感にあふれていた。

直四OHCはセダンの1596cc11馬力に対して、1770cc115馬力と強力になり、四輪ストラット、前輪ディスクブレーキ、165SR13。写真の1800X-EリゾートATは、140.8万円だった。

走った印象はなかなかのものだったが、ゆとりが出来た中高年家族の人気はいまいち盛り上がらず、新しもの好きの若者達にも迎え入れられなかった…この時代、若者も金回りは良くなり、マンションブームのターゲットは20~30代で、その平均が32才だった。

このファイブドア登場の79年、日本の自動車生産量は、85万1570台に達して、史上最高を記録した…その車は各国に輸出されて評判が良かったが、それが仇になり、やがて嫌われの身となる…いわゆる{ジャパンバッシング}である。

このバッシングは、自動車にばかりでなく、多くの分野にまたがり、ライバルが居ないカップヌードルでさえ対象になった。
マスコミは、ラーメンマカロニ戦争と書き立てた…「卵が入っていないのにヌードルとは怪しからん・消費者を騙すな・名前を変えろ」とかみついたのは、全米マカロニ製造組合だった…{坊主憎けりゃ袈裟まで憎い}のたぐいである。

各国のラリーで優勝を重ねた、三兄弟の兄貴分バイオレットのファクトリー用サファリラリー仕様車