フェアレディの元祖はこれだ!

コラム・特集 車屋四六

多くの人が元祖と思っているフェアレディは元祖ではない。
昭和33年/1958年の第五回全日本自動車ショーの日産ブースに「日本初本格的スポーツカー」と名乗りを挙げた車があった。

その名は「ダットサンスポーツ」で、型式名S211型から、ダットサン211型がベースと判る。滑らかな流線型に感心したら、日東紡と共同開発のFRPボディー。で、810kgと軽量だった。

ダットサンスポーツS211が二台という珍しい写真:左はNDC=日本ダットサンクラブ会員の車・右は現在も日産の所有車。

211型ダットサンスポーツは直四OHV34馬力だが、軽量車体と空力向上で、最高速度はセダンの95粁から115粁と向上し、日本では胸を張れるスピードだったが、世界では通用しない遅さだった。

第七回のショーに同じ姿のスポーツカーが「フェアレデー」の名で登場した。が、型式名はS211型でなくSPL212型で、ボディーを鉄製にして量産性を上げた輸出専用車だという。なるほどハンドルが右から左に移っていた。

最高速度では馬脚を現すダットサン211セダンを売る米国日産の片山豊御大の「ブランド力を上げるには儲からなくても良いスポーツカーが必要」との持論を日産本社が認めたのか、いずれにしても世界の一流が雁首を揃える米国市場に、この性能で良くぞ持ち込んだと感心するスポーツカーだったことに間違いはない。

輸出専用のSPL212は、日本では幻のスポーツカーだが、輸出専用にした理由は、当時の日本にはスポーツカーが買える余裕ある人が居なかったからである。

国家公務員の給料が1万円ほど、超一流企業でも1.5万円ほど…当時の日本は貧乏を絵に描いたようなもの、80万円もするスポーツカーなど絵に描いた餅同然だったのである。もちろん裕福なスポーツカー愛好家は居たが、彼等が乗るのは全て舶来、高価格な車ばかりだった。

当時、国産人気ナンバー1のブルーバードの68万円ですら月給取りには手には取れない高嶺の花で、まして大金払って二人しか乗れないスポーツカーなど論外だったのである。

珍しい横向きの後席:高い金払って二人しか乗れないという苦情に配慮した苦肉の作的シートである

 

「論より証拠」と昔から云うが、注文生産のS211が売れたのはたった20台だから、こいつも幻のスポーツカーと云えなくもない。が、日本ダットサンクラブにオーナーが居たので、私は乗ったことがある。

その後SPL212は、1189cc43馬力に向上して、最高速度も130㎞にアップしたが、欧州勢に対抗出来る性能ではなかった。が着々とノウハウを積み重ねて開発したフェアレディ1500/SP1500型がホームランをカッ飛ばす。

日本初のグランプリで、欧州勢を蹴散らして優勝、余勢を駆って米国でも暴れ始め、更にSP1600→SP2000と進化した後、フェアレディZ=米国ではダットサンZの誕生を迎えるのである。

で、結論は、フェアレディの元祖はSPL212と云うことになるが、本当の元祖と云えるのは、同じ姿形のダットサンスポーツS211とも云える。もっともダットサンスポーツなら、姿はMGモドキだが、性能では雲泥の差があった昭和27年/1952年誕生のダットサンスポーツDC-3が元祖と云えなくもない。

米国から里帰りのSPL213型/左ハンドル/日産蔵:48馬力型SPL211/288台、60馬力のSPL213/217台=505台が輸出された

 

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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