スカイライン誕生物語

コラム・特集 車屋四六

釈迦に説法になるやもしれぬが、スカイラインGTは売るために生まれた車ではない。勝つために生まれた車、日本グランプリ必勝を期して開発されたのである。
高性能なら我が社と自負するプリンス自動車(P社)が、第一回日本GPに惨敗して、第二回の必勝を願って開発したのだ。

P社惨敗の理由は簡単…「レースはアマチュアのもの、メーカーは深入りしない」。開催事前の自動車工業会の紳士協定をクソ真面目に守った結果だった。ちなみにトヨタやスズキは水面下で準備万端、いすゞは販売店が準備、市販車で勝てるとタカをくくったのはスバル、日産はサファリ集中でやる気なしだった。

さてGP惨敗の63年11月に二代目スカイライン1500が誕生。当時の日本では斬新高性能を誇るがレースには勝てない…で、開発の親方桜井真一郎は、グロリア用2L直6搭載を決意したが、直4用のエンジンルームに直6搭載は無理…が、桜井は諦めなかった。

で、荒療治敢行…シャシーをブッた切りホイールベースを20㎜延ばし、直6を載せたから鼻先が長い異様なセダン誕生。問題の直6OHCは、桜井がイタリーで見つけたウエーバーWチョーク40DCOEキャブ三連装で、105馬力が130馬力にアップした。

競技参加規則で、出場資格公認=ホモロゲーション取得条件に生産100台…で突貫工事決意→ホモロゲ申請期限3月15日なのに開発完了が2月半→常識では無理を一ヶ月で100台生産完了というのだから、当時のP社の執念は凄かったのだ。

{さあ・これでGPは俺たちのもの}と安堵したら、思わぬ伏兵出現。前年覇者のトヨタは勝ち目がないと判ると、奇計を考えた。登場したてのポルシェカレラ904GTSを、パンアメリカン航空で空輸、式場荘吉が個人出場したのである。

ポルシェ904GTS/1964年発売:空冷四気筒ミドシップ型180馬力・最高速度260粁/日本GPに関しては、GP用にトヨタが貸与、式場単独購入、調査目的購入車をトヨタから借用など諸説紛々だが真実は定かではない

鈴鹿に現れた904は世界トップの競争車、対するスカイラインは異様な姿だが街で見掛けるセダン、誰が見ても勝利の結果は歴然としていた。実際の性能でも、904=180馬力、スカイライン=130馬力と大差があった。

レースは予想通りポルシェの独走で始まり、それを追う名手生沢徹のスカイラインが執拗に追う場面が続いたが、中盤で生沢がトップに立ち観客騒然となるが、直ぐに逆転、ポルシェが優勝。

戦い終わり、トヨタが勝てないなら、P社の優勝を阻むという作戦は成功したかに見えたが、結果は裏目に出た…観客・TVを観た人が「ポルシェを抜いたあの車を」と注文殺到で、100台のみのはずが継続生産を決定…伝説のスカイライン2000GTが誕生する。

トヨタ車販売の悪影響を避けるためにスカイライン優勝を阻めと云う作戦は、一見成功したかに見えたが、裏目に出たのである。

実は生沢トップには裏話が…独走の904が周回遅れに追いつき速度が落ちたところに生沢が追いつき、追い越したのだが、実は生沢と式場は親しい友人関係「もし追いついたらチョットだけトップを走らせて」ということだったようだ。

ポルシェを従える生沢のスカイライン:「チョットだけ前を」の真偽の程は不明だが、あり得る話しだと思う。「大卒初任給1.5万円の頃GTS600万円+空輸$4000/144万円+諸経費・個人では無理だろう」「練習中コースアウトで大破→名古屋に運び一晩で復帰トヨタ無しでは」と多くの話しが。

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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