昭和40年/1965年頃までの軽自動車は貧しい車だった。ボロンボロンと溜息混じりで廻るエンジンは、いくら頑張っても15馬力ほどで、値段が安いことだけが取り柄だった。
アクセル全開、エンジンが唸りを上げてもスピード上がらず、振動と騒音だけが元気よく、軽のオーナーは少々の我慢と忍耐が必要で、加速が悪いなどは、ずっと後になってからの苦情だった。
64年のこと、スバル360が16馬力から20馬力になり「時速100㎞をクリアしたので」とモーターマガジン誌から試乗依頼が来た。
こともあろうに富士重工手配の試乗場所は谷田部の高速周回路。1周6㎞の楕円周回路でアクセルを床まで踏みつけても速度計は96キロを指したまま。それも追い風の時で、反転して向かい風になると90㎞に針が下がる…バンクなら200㎞近い速度を手放しで回れるコースを、100㎞以下で回る一周は手持ちぶさたで長かった。
そんな鈍足軽自動車を我慢から解放したのが本田宗一郎だった。67年誕生のホンダN360は、得意の二輪技術で驚異的高回転エンジンを完成、8500回転で31馬力…世間を驚かすに充分だった。
で、それまで軽市場の王座に君臨し続けたスバル360を蹴落として、王座に座った。そして70年、人気のN360をベースに開発されたホンダZ誕生…軽市場初のスペシャリティーカー見参だった。
N360の刺激で各社軽の性能は一気に上昇したが、Z登場で高性能スペシャリティーカーが続々登場…スズキフロンテクーペ、三菱ミニカスキッパー、ダイハツフェローMAXハードトップなど。
当時この種の車の具備条件の一つにロングノーズがあった。Zは全長3mしか許されないのに見事にそれを取り入れ、傾斜が大きなフロントウインドーから流れるようなルーフライン、そしてピラーレスハードトップ形式のクーペをよくぞ実現したものと感心した。
極めつけがリアビューだった。単なるガラスハッチだが、ガラスを縁取る太い黒枠が強烈な個性を生み出しユーモラスでもあり、直ぐに生まれた愛称は{金魚鉢}また{水中眼鏡}と呼ぶ人達もいた。
当時としてはド肝を抜くスタイリングを企画したのは若手技術者達だった。完成したクレイモデルに集まり、恒例の重役連の評価段階で、突拍子もない姿に渋い顔、その反対の旗頭が本田宗一郎だったという。
が、若手の熱心さにほだされてゴーサイン→完成→蓋を開けると、予想外な人気に、役員連中も驚き安堵した。その結果を反省したのが本田社長「年寄りの時代は終わり、これからは若者の時代」と内心引退の決意を固めたという話しを聞いたことがある。
その結果、当時の日本の実業界では異例とも云える、若き川島喜好社長の誕生となるのである。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。