小生JAFの資格は、公認審判員計時一級なので、初期ビッグレースでは、コントロールタワー最上階が仕事場だった。
近頃は車一台毎の発信器からの信号で周回数や順位などを自動記録するので間違うはずもないが、昔は緊張の連続だった。
当時は車一台毎の担当が、複数のストップウオッチで担当車輛の周回ごとの時間を記録、紙に転記しなければならなかった。
が、船橋サーキットや富士スピードウェイ完成の頃になると、プリンティングタイマーと呼ぶ計測器の導入で随分と楽になった。
このセイコーの計測器は、通過車を光電管で検知、ロール紙に打ち出してくれるので、正確かつ手間がはぶけるのである。
計時室は大奥のような処でもある。男子禁制ではないが、レースが始まると、計時委員以外は競技役員でも入室禁止、ピット内にも入れる報道人もオフリミットだから、TV新聞、雑誌に載ることがない処なのである。
光電管計測器導入で楽になったとはいえ、やはり大変で、特にスタート直後何周かは死に物狂い、血相換えて集中という状況になる。というのもスタート直後の未だばらけない車は、一団となって計測ラインを通過するからだ。
光電管の光線は、一台毎の認識が不可能で、二台でも五台でも、車ごとの間隔が空いていなければ、ひと塊で一台としか認識しないいので始末が悪いのだ。
で、選ばれた眼の良い奴が、ひと塊の順位を怒鳴り上げると、打ち出すロールペーパー紙に手書きで書き込む…「なんだ簡単」などと云ってはいけない、眼の下を時速200㎞以上で、一瞬にダンゴ状になって過ぎ去るのだから。
計時室は見晴らしの良さが命だから、何処もコントロールの最上階にあり、20人ほどが各自孤独に働き、各自担当の仕事をミスなく終わらせなくてはならない。鉄則は隣を無視、親切はお節介。新人教育の始めは「声を出すな」である。
例えば事故を見たら、声を出さずに一人で楽しむ…「やったーッ」の声に、皆が眼を向けた瞬間に通過した車で、辻褄が合わなくなり大騒ぎになった教訓からである。
私の現役だった1960年代はパソコンも電卓もない時代だから、レースが終われば忙しくなる…車ごとの周回記録、周回タイムの表を作らねばならないからだ。
が、当時効率の良い計算機はタイガー計算機で、計算中はハンドル一回まわす毎に、チン・チンと音がする、それが複数あるからとても賑やかなひと時となる。
近頃の進化した計時室は、計測、記録、集計などを、静かに機械がこなしているかもしれないが、当時は、レース開始→終了→集計作業、外からは想像もつかない戦争状態だが、ミスは許されないから、レース開始直前にドアに施錠する計時委員長もいた。
また、競争車の高い爆音を遮断するため、レース開始で窓を閉める…夏には冷房のない初期の計時室は汗だく状態になり、レース終了で窓を開けた時の爽快さは今でも忘れられない想い出である。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。