ジープは20世紀の傑作だった

コラム・特集 車屋四六

幼児の頃から{神の国}と叩きこまれ、負けるはずがない日本が太平洋戦争に降伏したのは昭和20年/1945年8月15日。学童集団疎開先の栃木県岩舟村髙平寺本堂のラジオで、生まれて初めて聞く天皇陛下の声=玉音放送で知った。私は国民学校六年生だった。

岩舟村には、本土決戦に備え戦車隊が駐屯していたが、その兵隊の中に、著名作家司馬遼太郎が居たとあとで知った。
敗戦で戦車隊は武装解除されるが、やってきた米軍兵士の車が変な形で、夜になるとそのヘッドライトの眩しいこと。
背中の釜で薪を燃やして走る日本のバスやトラックの前照灯は、山小屋の石油ランプみたいに元気がなかったから、シールドビームの光に目がくらむのも当然だった。

神国日本が戦いを挑んだ敵は{鬼畜米英}と洗脳されていたから、米兵は鬼と思っていたので、遠くからこわごわ眺めていた。
そんな鬼達に遭遇したのは9月、疎開先から帰宅途中の省線浜松町駅だった。降りた駅の周りは爆撃で焼け野原だから、小高い駅からは、富士山から房総半島まで一望できて、眺めを楽しんだ。

駅を出ると、例の変な車が駐まっているので、鬼と目をあわさぬよう通りすぎようとすると「ハロ-」と云われ顔を上げると、明るい笑顔の青年、どう見えも鬼ではなかったのでホッとした。

変な車はジープだと直ぐに覚えた。それを若い兵隊が下駄のように乗り回している。戦中の日本軍といえば鉄砲担いで自転車に乗り{銀輪部隊}とはしゃいでいたのだから、これじゃ戦争に勝てるわけがないと子供心に理解した。
また女の兵隊がジープを運転するのにも驚いた。女の兵隊だけでも驚きなのに、運転するなど日本軍ではあり得ないことだった。

米国が踏み込んだ泥沼ベトナム戦争の頃の進化したジープはこんな姿だった。左側棒は水中から空気を取り入れるシュノーケル。

見れば見るほどジープは、チンチクリンな姿だった。鉄板を折り曲げただけで何の飾りもない、だいいちドアがない乗用車なんか常識外れだったのである。

が、乗用車と思うから常識から外れるので、戦争の道具と割り切ってしまえば違和感も消え、窓を前倒すれば何台も積み重ねられるなど、優れた特技を沢山持ち合わせた車だったのだ。

ジープ誕生の切っ掛けはドイツ軍…1939年ポーランドに侵攻した独逸軍の、戦場を機敏に走り回る小型車に米軍は気が付き慌てた。
早速、開発開始、41年にはウイリスとフォードが生産開始で、45年の終戦までに46万台を生産したのは、さすが自動車大国。
この一事を見ても、日本が勝てる相手ではなかったのだ。

アメリカンバンタム社開発のジープを仕上げ量産したウイリスオーバーランド社戦時中の戦意高揚広告

近頃年を取ったら、ジープが変な車ではなくなり、美しいと思うようになった。朝鮮→ベトナム→湾岸と戦場を経るに従い進化して姿も変わったが、美しいのは初代のオリジナルだと思っていたら「ニューヨークの近代美術館に{20世紀の優れた造形}として飾られていると教えてくれた人が居た。

警察予備隊(後自衛隊)用にライセンス生産した三菱ジープ:初期型ではWILLYSの頭に三菱のマークが。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

 

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