今でこそミドシップなど珍しくもないが、1960年代までは未完成な機構だった。が、歴史は古く、WWⅡ以前ポルシェ開発のベンツは、不安定にケツを振ることから「尻尾が馬を振る」などと揶揄され、アウトウニオンのGPカーは、高性能とは裏腹に操縦が難しく、B.ローゼマイヤーだけが好成績だった。
未完成ミドシップの技術を完成したのはロータス生みの親、コリン・チャプマンと云っても差しつかえなかろう。彼の若い頃は典型的バックヤードビルダーで、自身のレース経験を生かして、安価高性能スポーツカーを貧しいマニアに提供するのが夢だったのだ。
そんな夢の実現第一号がロータスセブン/1957年…キットを購入、自家のガレージで組み立てれば、工賃無料、完成車に掛かる税金無しで、レースに出られるというものである。
もちろん懐が豊かなら組み立て済みもある。合理化の権化みたいなセブンで、チャプマンの夢、安い高性能を実現したが、一方で高価な高性能車の開発も進めていた。
で58年に登場したのがロータスエリート。オーソドックスなFRだが、高性能追求に全力投球の結果は高価で、一台売るごとに、1000ポンドの赤字と云われた。
これでは会社が潰れると反省したチャプマンは、コストダウンに精を出す。高価なコベントリークライマックスは、安価な市販量産の直四OHVに換えて、パワーダウンをボディーの軽量化で解決。軽量化には、ワンピースのグラスファイバーボディーを造る技術を開発したのである。
62年に登場したロータスエランの値段は、1499ポンド…エリートは2000ポンド+赤字の1000ポンド=3000ポンドだから、約半値ということになる。
エラン開発はさておき、チャプマンの次なる夢は、フォーミュラマシーンで、57年に発表したのがMK16…オーソドックスなFR形式だったが、名手スターリング・モスの操縦で、60年にグランプリ初優勝を飾った。
その後着々とF1の技術ノウハウを蓄積し、放った次の作品MK25が、競争界に大きな波紋を投げかけた。奇異と不安の眼で世間が見つめたミドシップF1マシーンが快進撃を始めて世間を驚かせるが、その技術は市販のスポーツカーにフィードバックされる。
で、66年にロータスヨーロッパが誕生する。目立ち度抜群の二座席スポーツカーは、翌67年の東京モーターショーにも現れ、わずか1070㎜という低さに、我々もド肝を抜かれた。
我々の仲間で早速手に入れたのが中村正三郎…SCCJ/日本スポーツカークラブ員で、後に9回当選の代議士に。環境庁長官・法務大臣を務めた人物である。
ヨーロッパは僅か1470ccで82馬力ながら、615kgという軽量仕上げの効果で、時速185㎞という高速で走り、ディスクブレーキの効きの良さに感心、ハンドリングの鋭さに「これがミドシップか~」と驚き、走りを堪能したものだった。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。