ダットサン斬新な姿は中身そのまま

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最後には神風が吹いて大勝利と、子供心に疑わなかったWWⅡに日本が降参したのが昭和20年/1945年8月15日。戦時体制から元に戻った戦勝国米国自動車産業の翌46年の生産量は300万台。一方敗戦国日本の生産量は老舗日産の22台だった。

1947年、連合軍最高司令部/GHQの乗用車生産禁止解除で、ダットサンDA、たま電気自動車、トヨペットSAが生産出荷されたが、ダットサンの年間出荷量が73台という、お粗末な体勢だった。

1947年ダットサンDA型:戦前の治工具部品を探していち早く市場に復帰した

翌48年、戦前型DAは戦後のDB型になり出荷153台、49年150台だったが、戦後型と云っても、中身そのままで着物だけ換えたという粗末なもので、斬新なはずの衣装はセダンもワゴンも米国の小型車クロスレイに瓜二つという、お粗末なものだった。

1948年ダットサンDB型:最新フラッシュサイドボディーだが中身はDA型/その斬新姿は米小型車クロスレイに瓜二つだった。

更に50年に登場するダットサン・スリフトDS型は、日産デザインと自慢しデザイン界の評判も良かったが、勘ぐれば顔つきから車体までジープワゴンとダブってくる姿だった。

1951年ダットサンDS型:日産オリジナルの自負で登場したがマニアは顔つきから角張ったボディーはウイリスジープからと気が付いた。でもこの姿の評判はよかった

初め2ドア、51年4ドア追加。全長3750x全幅1485x全高1630㎜・車重900kg・直四サイドバルブ860cc・20馬力/3600回転・87万円は、もりそば15円・大卒初任給3000円の頃、月給取りと呼んだ当時のサラリーマンなどには手が届かぬ高嶺の花だった。

当時日産は、手作り的生産方式を、先進国同様の大量生産方式に換えようと努力していた。ハンマーで叩き出すボディーはプレスに。スプレーガンの塗装では4~5時間を要した乾燥が、赤外線乾燥により7分で済むようになった。

さて、日産という会社は戦前から宣伝に力を入れていた。これは昭和10年に入社した片山豊の影響だろう。♪僕の彼女はダットサン♪のCMソングも当時は斬新で、作詞作曲の三木鶏郎は冗談と皮肉で、戦後の沈滞ムードを吹き飛ばしたラジオ番組{冗談音楽}のリーダー。もっとも日産のCMソングは戦前からで、1937年/昭和12年に西条八十作詞の♪春は自動車に乗って♪が登場している。

スリフトDSは評判の良い乗用車だったが、日産が大量生産方式を取り入れる直前の過度的作品だった。55年になると名作ダットサン110型が登場するが、飛躍的大量生産で痛手を受けたのがトヨタだった。で、対抗馬としてコロナを開発するが、毎回いつも後手に回り負け戦が続く話はいずれということに。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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