昭和30年代、敗戦の焦土から立ち直った日本経済の中、自動車産業も急成長を続けていた。で、日本を発展途上国扱いしていた米国は「そろそろ一人前扱いをしないと後々災いの元に」と思ったのだろう、外車輸入自由化、資本自由化などを押しつけてきた。
そんな時代背景の中、昭和41年、日産とプリンスが合併した。
興銀系日産、住銀系のプリンス、いわば水と油の合併は{競争力強化}の旗印の下、通産大臣の口利きでと聞き世間は納得した。
が、それは表向き。そもそもの発端は、プリンスがBS系のため、BSがタイヤを売りに行くと日産もトヨタも買ってくれない…「プリンスに買って貰えば」という嫌がらせである。
で、通産大臣まで担ぎ出しての合併劇は、BSの御大・石橋正二郎の実力だったと云えよう。
合併が終わり、昭和43年、ゴーヨンの名で親しまれた二代目プリンススカイラインが三代目日産スカイラインに進化した。これがレース界で一世風靡する箱スカ…勿論開発は旧プリンス系技術者。
昭和44年5月の日本GPを皮切りに、昭和47年3月の富士グラチャンの高橋国光優勝まで、実に50連勝という金字塔を打ち立てたのである。
それは箱スカGT-Rの功績だが、三代目に進化するとGT-Rはなく、プリンス開発のG15型1.5L/59.5万円、ホイールベースを伸ばし日産L20型六気筒2L搭載のGT/89.5万円のみで、時速200㎞を超えるGT-R/164万円は後からの追加バージョンだった。
さて、長い三代目の能書きに続き本題に入ろう。G15搭載車にはバンがあった。全長4275×全幅1595×全高1425㎜・ホイールベース2490㎜・車重1030kg・セダンより40㎜長く、20㎜高かった。
プリンス時代開発のG15型は直四OHV・ボアストローク82×7.2㎜の高回転指向のオーバースクエア型・1483cc圧縮比8.2で88馬力/6000回転・12.2kg-m/4000回転・3MTと4MTが選択できた。そのエンジンのボンネットは、今のジャガーのように斬新な前開き。最高速150㎞はバンらしくない俊足で63.9万円だった。
ちなみに箱スカの原点はプリンス時代で、その伝統なのか二代目と同様に三代目もバンとは云いながら、座席に座ってみれば違和感なく乗用車の雰囲気…「こいつはバンではなくステーションワゴンじゃないか」と云ったものである。
セダンと同じツラ構え、クロームメッキの窓サッシュ、豪華なホイールカバー、バックランプ埋め込みのリアバンパー等々、何処から見てもステーションワゴンの風情だった。
座ってから振り向かなければ乗用車風情のインパネには、ラジオ、ジェコーの電気時計、ヒーターも標準装備だった。
広いキャビンで搭載量も多く、評判は上々で、昭和47年に四代目にバトンタッチする段階で引退した。
ちなみに、四代目はケンメリの愛称で相変わらず評判上々だった。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。