【車屋四六】調布空港のジムカーナ

コラム・特集 車屋四六

68年というと昭和43年だから敗戦から既に23年、無我夢中で働き続けて、日本人の生活にそろそろゆとりが見え始めた頃だった。

66年にはサニー、カローラが登場してマイカー時代が始まり、ついこの間までは思いもしなかった贅沢な品物が一般家庭にもやってくる。敗戦から20年近くの耐乏生活の後だけに嬉しかった。我々が子供の頃の読み物だった漫画を読み、まだ使えるのに飽きれば捨てる、今時の若者達には想像も付かないことだろう。

昭和20年秋、戦争に負けた日本は各国軍隊に占領された。アメリカ、イギリス、中華民国、オランダ、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、勇猛で知られるインドのグルカ兵なども居た。

東京の道路に、○○アベニュー、××ストリートなどローマ字の道標が角毎に建ち、銀座四丁目の矢印道標にはニューヨークまで○○○○マイルなどと書かれていた。

ジャガーXK-120のスタート。後方は日本陸軍時代の戦闘機格納庫。遠方に大型ヘリが

日本占領はアメリカ軍主体のGHQ(連合軍最高司令部)の手で行われたが、最初、進駐軍と呼んだ軍隊が、駐留軍、在日米軍と呼び方が変わるたびに、数が減っていった。

68年頃、当時は山手線だった現在の山の手線の内側からは米軍の大きな施設が消え、日比谷堀端のGHQはもちろん、代々木のワシントンハイツ、六本木の第八騎兵師団も、日本に返還されていた。

が、地方の基地は健在で、埼玉ジョンソン基地の野戦病院の王子移転計画に大規模反対闘争が起きたり、空母エンタープライズの横須賀寄港阻止闘争があったり、厚木、岩国などの空港も健在。

というように東京では見かけなくなった米軍も、地方ではまだまだ元気で、彼らの生活は日本人がうらやむほど裕福だった。が、実際には長いベトナム戦争で、さすがのアメリカも懐が寂しくなったのか、ジョンソン大統領から時の佐藤首相に「ドル防衛に協力してほしい」などの要請もあった。

とにかく治外法権の米軍も、時には便利なこともある。私事だが厚木基地でスカイダイビングを習い、横須賀基地の連中とスキューバダイビングを楽しんだりしたこともある。

また米軍飛行場ではジムカーナやレースを楽しんだ。彼らの単独主催のレースに飛び入りしたり、日本人と共同主催ということもあった。

米軍飛行場には消防隊や救急隊が居るのも便利だった。東京付近では、厚木、横田両航空基地、白井飛行場、調布飛行場など。調布飛行場の56年型デソートは、ジムカーナで奮闘中の写真。この時私は、JAFスポーツ委員会派遣の審査委員長を務めた。

米軍接収中の飛行場ゲートは通行証が必要。日本スポーツカークラブ、東京スポーツカークラブ(米軍関係)共催のリトルワトキンスグレン・ミーティング

滑走路に白線で書かれたジムカーナのコースは、米国で有名なレースコース“ワトキンスグレン”のミニチュアと米人スタッフが自慢をしていた。で、大会名が“リトル・ワトキンスグレン”だった。

「よく遊びに飛行場を貸してくれるな」と聞いたら「車好きの司令官なら上手に焚きつければ」と笑っていた。もっとも「俺も走るぞ」の条件付きで、嬉しそうにキャデラックで走る司令官を見たこともある。

そんなことがあった68年で想い出すのは、とうとう未解決のまま時効成立の“府中三億円強奪事件”明治百年が記念され“イザナギ景気”や“昭和元禄”と呼ぶ時代になり日本は元気一杯、日本初高層ビルの霞ヶ関ビルが建ち、マンションブームの頃だった。