「有山勝利の視軸」東・名・神開通50周年

コラム・特集

2019年6月26日)は、東名高速道路・東京~小牧間の開通50周年で、東・名・神の三大都市が一本の高速道路でつながって50年経つといわれてみても、それほどのありがたみは感じない。

というのも、一足先に名神高速道路の西宮~栗東間が一部開通していたからで、我々東日本のクルマ好きは一般道をひた走り、名神高速へ。仕事を終えてから出発するときは途中で1泊、折り返し点は西宮の10車線道路(国道43号線)であった。

第1回日本GP(1963年、鈴鹿)の時も、途中で友人のクルマに出会えば、お先にと挨拶を交わしてまた走り、音を上げて走れなくなったクルマはそのまま路上駐車し、クルマに乗り合わせて鈴鹿に向かった。会場近くまで行きながら開場時間に間に合わないと、諦めて乗り捨てたクルマを合わせると、当時にすれば大変な数になっていたものと思う。

西宮の10車線道路にも驚いたが、この辺りは上方の酒どころでもあり、飲めない私にも立派な看板がいくつも目に入った。

江戸時代にお酒は「下がりもの」といって、阪神地区のものが一枚上に扱われた。「酒(さけ)は灘」に代表され、「醤油(しょうゆ)は野田」に限るという。ところで「お酢(す)」はどこか? サ行で揃えた言葉だけに、「すわ(いざ)鎌倉」という次第だ。

走ればそこそこにお腹が催促をするので、小腹を満たすのにちょうどよいのはラーメンで、各地で食べ比べることになった。スープの味が変わるのは浜松が境のようだ。うなぎは浜松でも関東風、関西風があり、両者乗り入れの感がある。

生駒山付近の見事なほどに長い直線道路は、軽飛行機なら飛び立てるほどの長さで、下り坂など自分の乗っているクルマが浮き上がるような気持ちも味わえた。

道路開通初期には、中央分離帯の未だない部分があったり、カーブ部分の設計には「クロソイド曲線」が用いられた。

東名高速の正式名称が「第一東海自動車道」(新東名が第二)ということは開通50周年後に知った。今や1日に約41万台の自動車が利用する日本の大動脈であり、道路会社の管理担当者のご苦労も相当のものがあるだろう。これからもよろしくお願いいたします。

有山勝利プロフィール

1937年生まれ。1960年に総合輸入車ディーラーに入社、そのまま定年まで殆ど広報作業に従事、依頼により1966年より、ブリヂストン・タイヤニュース、週刊大衆に連載執筆、筆名に有川 浩を使用、月刊自家用車、報知新聞、日刊スポーツ、スポーツニッポン、ディリースポーツ、マイカー情報(札幌)、くるまにあ にも連載、単発は無数。媒体側と広報担当の双方と交友、互助の功を上げた。

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