【車屋四六】栃木の山奥でホンダが世紀の大工事

コラム・特集 車屋四六

日本初の本格的サーキットは1963年開場の鈴鹿サーキットで、第一回日本グランプリの開催が此処。で、火が点いたスポーツ熱を関東にもと、65年船橋サーキットがオープンする。三番目が。66年誕生の富士スピードウエイで、鈴鹿とJAF間のコース使用料の折り合いで頓挫した第三回日本GPが、1年の空白を経て開催される。(トップ写真:当初発表されたツインリンク茂木の完成予想図)

時はまさにバブルに向かい加速を始めた頃、国民所得は増え、自動車産業は拡大、モータースポーツの加熱も進行、岡山、九州、仙台、全国各地にサーキット誕生が続いた。

その中で鈴鹿は、本田宗一郎の理念なのだろう、車が好きなお父さんや若者達だけが楽しむところではなく、家族みんなで楽しめる遊園地的な場所というのが大きな特徴だった。

そんな所を関東にもとの目論見で、ホンダが白羽の矢を立てたのが、若者が去り過疎化した栃木県茂木町。それは一企業による20世紀最後の大工事だったと思っている。

そんな工事を知り、始めて訪れたのが95年4月だった。不思議なことに「此処です」と云われても、其処には大工事の気配は全くなく、川と静かな山があるだけなのに拍子抜けした。

が、仮設の橋で川を渡り、工事用道路を登りつめると突然目の前に開けた光景は、目を見張る大工事だった。幾つかの山に囲まれた深い谷を、山を削りながら埋め立ているのだ…その量、後楽園ドーム球場30杯分だと云われた。

194万坪。その山の周りを自動車で走ると、30分以上かかるほど広い。あたりは畑の中に農家が点在し、工事車両は見えず、山に遮られて大工事の騒音も外では皆無、のどかな田園風景だった。

完成後の名前はTwin Ring Motegi=ツインリンク茂木というように、USAインディ500に代表される楕円形オーバルコースにヨーロッパ型サーキットを重ねるという贅沢なレース場である。
コースが重なることで、観覧席やピットが共有できるし、従来の目前しか見えないサーキットと異なり、高所から大きな視野を確保出来るサーキットだった。

1995年4月初訪問時:谷間はかなり埋められているが手前台地からの落差はかなりある。遠くに小松製75トンダンプ、手前にGPS付ロードローラーも見える

近頃のレーシングカーは時速300㎞を越えるので、土盛りは念入りだ。タイヤだけでも人の背丈を超える巨大75トンダンプカーが運んだ土は、1メートル毎にGPS付ロードローラーが填圧するが、GPSの軌跡をPCで処理、踏み残し防止を徹底していた。

初訪問の1995年4月には、かなり埋まった状態だが、それでも完成時の水平面より落差は30米ほどはあったと思う。何度か視察に通って、96年12月には、ほぼ地面は完成の状態だった。

今では、レースや夏の花火大会、ホテルや博物館、また老若男女家族で自然を楽しみ遊べる処として、イベント毎に数万の人が訪れ、飲食や土産などの潤しで、過疎の町茂木は見事に一変した。

1996年12月:埋め立て工事はほぼ終了これから最終仕上げ工事直前の風景/右は筆者、左は名物広報マンだった故松岡洋三
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