奥日光の板屋は、輪王寺から湯守に定められた250年を誇る老舗旅館。其処の息子大類君が慶応の後輩なので、昭和20年代後半に同級の富澤康夫と泊まりに行ったのが最初だった。
その後も何度か訪れたが、卒業してからのある日、旅館に着いたら表に駐まっている一群の車を見て、思わず写真を撮った。(トップ写真:名車300SLに姿が似た190SL)
どれも当時憧れの車ばかりなので、何故?と思ったら、SCCJ/日本スポーツカークラブのイベントの終着点だった。
SCCJには慶大OBや現役が居たから、そんな関連があったのだろう。私はこの点で未だSCCJ会員ではなかった。
手前のベンツ190SLの生産期間は55~63年、クラウン55~62年、MG-TDが49~53年だから、撮影は1960年頃だろう。一番奥の幌の車は、推測でモーリスマイナーのようだ。
このクラウンは1500だろう。小型車上限1.5ℓの法規が2ℓに改正されたのが60年で、即1.9ℓが追加されたが、写真のグリルは1500時代で、ボンネット先端の翼状マスコットで1500DXと判る。
60年の法改正から車検にエンジン番号記載義務が無くなり、1.5ℓから2ℓへの載替えが流行った。私も事故車の1.9ℓを買い、載せたら見違えるように加速が良くなり、大喜びしたことがある。
MG-Tシリーズは、日本でスポーツカーの代名詞になるほどのインパクトを与えた車だが、中でもTDはベストセラー、スポーツカーとしては驚きの2万9664台を生産、主に対米輸出された。
日本では三船敏郎、三国蓮太郎、草笛光子などが乗っていた。
ちなみにMG-Tシリーズの生産量は、TA=3003台・TB=394台/36~39年。TC=1万台/45~49年、TD/49~53年。が、古風な姿の魅力も此処までで、米国市場の好みに合わせた流線型MGAにバトンタッチし、Tシリーズは終わりを告げるのである。
54年誕生の190SLは、憧れ300SLの普及廉価版として開発されたものだが{姿は似ているが中身は非なる物}という例えが当てはまるスポーツカーだった。例えば、300SLはレーシングカーと同じ構造のチューブラーフレームだが、190SLは 180型セダンのプラットフォームを流用。が、ベンツ初の四気筒OHC・1897ccは105馬力で最高速度171㎞、ゼロ100㎞=14.5秒とかなりな水準で、米国での評判は上々だった。
米国ではパーティーカーとも呼ばれた。大型だと帰りに友人を乗せて送らなくてはならないが「すまない二人しか乗れないので」と夫婦で帰れる…それで裕福層のセカンドカーとしての人気も見逃せない流行理由だった。
クラウンは流行を始めたばかりのフェンダーミラーが特徴だが、イタズラで良く折られるのでスプリングを仕込み可倒式に変わった。
こいつは良いとばかりに買込み愛用のジャガーMK-Ⅶに付けたら、110㎞になると風圧に負けて手前にお辞儀をするので困ったが、今では良い想い出になっている。