【車屋四六】 写真には多くの情報が詰まっている

コラム・特集 車屋四六

写真には多くの情報が詰まっている。たまたま見つけた写真(トップ)は、日野ルノー4CVの誕生は昭和28年、ブルーバード34年、日産オースチンA50は35年、ということで昭和35年頃だと判る。

此処で気がつくのは、ナンバープレートには登録地名があるはずなのに、それがない…何故か鮫洲で登録する東京の車だけには地名がなかったのである。

WWⅡ以前から自動車の番号札は横一列だったの。登録台数が増えて、小型5,大型3、商用車4などで区分されるようになると、3―○○○のような横一列になる。

一方、在日米軍の自家用車も日本に登録するようになると、車種区分の次ぎにAを付けて、3A-○○○になり、治外法権の在日外国人所有の車には3を付けたことで、俗に{サンマンダイ}という呼び方が生まれた。

更に、諸官庁公用車は{た}の文字で区分された。
次ぎに登録数が増えて、登録地の地名が入るようになると、上下二段になり、さらに平仮名が加えられて現行様式になるのである。

ダットサンフェートン後部とセダン・110型セダンとトラック・ダットサンスポーツ・トライアンフメイフラワーと並ぶ。写真はNDCの前身オールド・ダットサンクラブのイベントと思われる/昭和30年頃

話しを戻して昭和35年というと、前年のブルーバードに続いて日産は公法人用向けクラウンに対抗するセドリックを発表、逆にトヨタからは、ブルーバードに対抗するコロナ二代目が登場する。
三菱500やマツダR360が誕生したのも同じ年だった。

昭和35年特筆すべきは、1500ccだった小型車上限が、2000ccに拡大されたこと。で、セドリックもクラウンもボアアップで1900ccを発表。パワー不足を嘆いていた1500のオーナー達の、1500cc載せ替えが流行り、それで私のクラウンも元気を取り戻した。
ついでに車検にエンジン番号を記載する義務も消えた。

そんな出来事と共に新道交法が施行されて、困ったのは、飲酒運転が罰せられるようになったこと。それまでは、酔っ払い運転は駄目だったが、飲酒運転は大目に見られていた。

そんな新道交法施行の前の日、銀座で呑み「家まで送って」というホステスを乗せて差しかかった青山で右折のタクシーにぶつけられた…そこで青山一丁目交番に行くと「明日でなくて良かったね」とお巡りさんが薄笑いを浮かべた。
あと30分遅かったら「あんたも飲酒運転で罰せられる・運が良かったね」といことだったのだ。

オースチンはいすゞヒルマンと共に、裕福な人達の自家用車として好評だった。ちなみにオースチンは男に、またヒルマンは女に好評だった。

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