【車屋四六】全日本モーターショーから東京モーターショーへ

コラム・特集 車屋四六

日本で生まれた自動車は意外に古く、19世紀末ドイツで内燃機関自動車が生まれて20年ほどが経った頃だった。
が、当時の金満家御用達は、やはり輸入外国車ばかりだった。

その頃、徐々に力を付けてきた日本陸軍は{富国強兵}をモットーに、自動車の国産化を強く要望した。が、それは乗用車より貨物自動車が欲しかったのである。

一方、産業立国に燃える実業家の一部が、乗用車の国産化を真剣に考え始めていた。で、量産車生産の先鋒を切ったのが、鮎川義助と豊田喜一郎、日産とトヨタの芽生えである。

両社、1930年代半ばに大型乗用車の販売を始めるが、WWⅡ開戦で軍用貨物自動車生産に専念するも、一部は国内のバスや貨物自動車として木炭釜を背負って活躍した。

乗用車よりバスが多い会場:三菱ふそうボンネットバス健在/遠方にキャブオーバー型も。屎尿回収車も堂々の展示/手前

が、1945年敗戦、上陸した進駐軍総司令部/GHQは自動車の生産を禁止したが、一段落するとトラック、乗用車の順に解禁したが、日本と外国との技術格差は目を見張るほどにかけ離れていた。

「乗用車は輸入すればいい」は当時問題視された一万田日銀総裁の発言だが、幸いにも朝鮮動乱で息を吹き返した日本経済の影響は乗用車にも及んだ。

そして技術格差を埋めるために英仏の代表的大衆車生産目的の技術提携、またトヨタのように自力開発を選んだ会社もあったが、いずれにしても日本の近代的乗用車開発は発進したのである。

51年/昭和26年に結成した、日産・トヨタ・いすゞ・日野・民生・三菱、六社の{六日会}が、53年に企画したのが全日本自動車ショー。そこでリーダーシップを発揮したのが片山豊…で、生まれたシンボルマークは片山のスケッチから。仕上げたのは板持龍典画伯だが、車輪を押す頭に月桂冠のモデルは片山と云われている。

第一回全日本自動車ショー開催は54年4月日比谷公園で。が、野外会場は雨が降れば泥んこ→人呼んで{日比谷たんぼ}で客の靴は泥だらけ…「雨でこれほど儲かったのは初めて」と喜んだのが有楽町ガード下の靴磨きの連中だった。

「見に来るかねぇ」の心配は取り越し苦労で、10日間の来場者は54万人を越えた。展示車267台中、乗用車はオースチン、ダットサン、ヒルマン、ルノー、プリンス、トヨペット、オータ、ダイハツ、たった17台。主力は三&四輪貨物とバスと二輪車だった。

が、見物人の大半は夢を見に来た人達で、論より証拠、駐車場に並ぶのは自転車ばかりだったが、第二回になると二輪車がズラリ、朝鮮動乱特需景気の影響を目の当たりにしたものである。

皇太子殿下来場の第二回も日比谷公園で来場者76万人。相変わらず二輪と商用車主導だったが、乗用車ではダットサン110とトヨペットクラウンの斬新さに人が集まっていた。

第二回日比谷会場のトヨペットクラウン:ひどい架台でも格好良さに注目の的/自慢のサスペンションが見えるよう下に鏡が置かれていた。隣はリアエンジンバス

第三回、第四回も日比谷公園だだったが、春から秋開催に変わった57年の第五回は後楽園競輪場だった。この頃になると乗用車で来る客も増えて駐車場が狭くなり、第六回は晴海に移り問題解決。

そして徐々にショー本来の姿、乗用車主導になり、第10回からデトロイト、ジュネーブ、フランクフルト、パリなどのように、都市名を冠し{東京モーターショー}と改名、世界一流のショーと肩を並べるようになったのである。

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