【車屋四六】カレー色したルノーが日本中を走った

コラム・特集 車屋四六

正直、日本でルノーの影は薄い。輸入元がコロコロと変わったのも原因だったろう。が、陽の目を見る大きなチャンスがあった。
ヤナセがフランスモータースを設立した時である。

ルノーより知名度が低かったオペルを、短期間で年間販売数万台に育てた実力を持ってすれば、たちまち大台にと期待したのだが、ルノーと日産の提携でルノージャポンが設立されて夢は消えた。

が、昭和30年代の日本では、ルノーは有名だった。戦後8年目の昭和28年、ライセンス生産で日野ルノー4CVが誕生。いまだ爆撃の後遺症が残る東京を走りだし、安価な小型車として30年代に入ると大人気、タクシーも走り回って知名度が上がった。

当時日本製と云えば、ダットサン、トヨペットSF、オータ、オートサンダル、ダイハツビーなどだが、国際レベルからは姿も性能も最低だった。唯一プリンスセダンだけが、どうやら合格だった。

昭和28年は、自動車後進国日本の乗用車が一人前になる記念すべき年で、日野ルノー、いすゞヒルマン、日産オースチンと、世界的な大衆車が国産化され、やがて日本が世界一流の量産国になる踏み台になった年だからだ。

フランス製同様、顔に七本バーの初期日野ルノーのキャンペーン写真:後方HOTEL TEITO=帝都ホテルは現在のパレスホテル/皇居堀端

が、大卒初任給が8000円にもならない頃、100万円を超えるオースチンやヒルマンは手が出ぬ高嶺の花だったが、4CV は73万円、平社員はともかく、背伸びをすれば買える可能性が生まれた。

が、ルノーには他の客も居た。爆発的需要を生んだのはタクシー業界。初めは日本の悪路で、フランス生まれの華奢な足が悲鳴を上げたが、改良で丈夫になると、ダットサンで寡占状態の市場に、切り込んだのである。

が、それにより悪弊も生まれた。当時、タクシー運転手は{雲助}と呼ばれるほどの悪マナー。周りの迷惑など眼中になく、急停車、急発進、急旋回は日常茶飯事、ホーン鳴らしっぱなし走る様子は戦闘機のようで、付いたアダ名が{神風タクシー}。

さて高給サラリーマンなら4CVが手に入る時代になってはいたが、未だ庶民には高嶺の花だった。そんな所に陽が差した…タクシーで使い古した4CVの、新車入れ替えで出る中古車を整備した、いわゆる{タク上げ}こいつが安く買えるようになったのだ。

日比谷公園の第二回全日本モーターショーの日野ルノー4CV 。三本バーは頑丈に改良後のモデル/後方左からプリンスセダン・オースチンA50/黒・ヒルマン/緑・トヨペットマスター

いつの世にも賢い経営者が居るもので、それを利用宣伝に使ったのがSBカレー…なんとタク上げ車100台をカレー色に塗りSBカレーと書き{そのまま一年乗れば車は貴方に}と募集をかけた。
たちまち評判になり応募者殺到…カレー色の100台が日本中を走り廻ることになったのである。

一世風靡した4CVは、次世代のコンテッサが登場しても継続生産され、償却と量産効果とが相まって、50万円でも釣りが来るようになり、昭和36年まで継続生産、コンテッサと併売された。

以前ルノージャポンのレーマン社長との会食で「昔ルノーの知名度は日本一・若者の需要喚起も良いが年輩者の記憶呼戻しも必要では」と云ったら「日本製4CV のことは知っていたが・そんな事があったのですか」と肯いていた。