【車屋四六】サバンナRX-7はポルシェキラー

コラム・特集 車屋四六

自尊心の強さでは世界一だろうフランス人の威張り文句は「自動車の発明はドイツだが育てたのはフランス」である。
一方、自動車後進国の日本に胸を張れる文句など無いと思ったら、あった。「REの発明はドイツだが育てのは日本」というより、実際にはマツダなのだが。

RE(ロータリーエンジン)は、ドイツ人バンケルが開発実用化に成功した。それは、アメリカ初のジェット旅客機ボーイング707型パンアメリカン航空機が、羽田に初飛来した59年だった。

翌60年は、安保闘争で東大生樺美智子がデモで死亡と騒がれた年だが、ドイツには、REの製造権を得ようと世界中から100社を越える企業が集合、その中にマツダも居た。

幸いにしてマツダは製造権取得に成功したが、そう簡単に生産できる代物ではないことに気づいた。
バンケルがオートバイでは老舗名門のNSU社の援助で開発したREは、単に回ったというだけで、量産技術が確立されたものではなかったのである。

で、製造権を取得した各社の量産技術開発の先陣争いが始まり、世界中で試行錯誤が繰り返される中から一歩抜け出し、世界向けて「完成」の初名乗りを挙げたのがマツダだった。

話は変わり、WWⅡ以前に、日本に乗用車開発生産技術などは無いと云って良かった。が、敗戦から出発、短年月で世界トップレベルに成長できたのは、敗戦で羽をもがれた日本飛行機産業の、優れた頭脳が自動車産業に流れたからと云われている。

彼等は世界最高の戦闘機や爆撃機を作った人達。中川良一/プリンス、長谷川龍雄/トヨタ、百瀬晋六/スバル、久保富夫&東条輝雄/三菱、中村良夫/ホンダ等々。もちろんマツダにも山本健一が居た。

執念でRE量産技術を確立した山本は、後にマツダの社長→会長になる人物で、戦争中は川西飛行機で紫電開発に従事。紫電は大戦末期に米空軍が恐れた名戦闘機“紫電改”の前身である。

日米TV衛星中継初画像で、ケネディー大統領暗殺画面が飛び込んできた63年に、マツダは念願のRE量産化に目処を付けた。

で、その年の第10回全日本自動車ショーが、日本製量産可能な世界初REの初舞台。ワンローター35馬力、ツーローター70馬力の二機種に好奇の目が集まり、来日した外国技術屋も入念にチェックを入れていた。

が、待望の発売は遅れに遅れ、購入を心に決めた客は焦らされたが、67年ついに、ツーローターRE搭載のコスモスポーツが走り出す。日本の自動車保有台数が1000万台を超え、世界第五位になった年でもあった。

サバンナRX-7完成:広島三次に完成直後のマツダプル-ビンググランドで報道試乗会が開催された

何故マツダがRE実用化に執念を燃やしたかというと「広島の三輪車メーカー」から「世界の四輪車メーカー」へと、イメチェンに絶好の素材と判断したからのようだ。

そのあとのマツダは“ロータリゼーション”を旗印に、ファミリア、カペラ、ルーチェ、コスモ、ロードペーサーと、REファミリーの輪を広げて行くのである。

「コンパクト軽量・高回転のRE特質を生かすにはスポーツカー、レーシングカー」と主張する山本。その実現の第一弾がサバンナRX-7だった。

それまでのようにレシプロ併用ではなく、初めてRE専用車体が開発された。開発で陣頭指揮を執った小早川隆治は「軽量化のためにゼロ戦を徹底研究した」と云っていた。
マツダ在籍中RX-7開発の小早川は、現在RJC会員だが、先祖は織田、豊臣、徳川時代に登場する広島の大名と聞いている。

RX-7は、世界最大のスポーツカー市場アメリカで人気の、ポルシェ924をターゲットに開発され、その後フェアレディーZ(ダットサン240Z)と両輪で米国のサーキットを快走することになる。

マツダRE快走の集大成がルマン24時間への挑戦である。
マツダ787B、654ccx4=4ローターで800馬力(10000回転)が、24時間走って日本車で初優勝した。こいつはルマン史上初のRE優勝であり、レシプロエンジン以外の初優勝でもあるのだ。

1991年、日本車初ルマン24時間レース総合優勝のマツダ787B:ルマン用REは四重4ローターの4R型/654ccx4=2600cc、800馬力/10000回転

ちなみにRE=ロータリーエンジンとは日本独自の呼び方で、外国では開発者の名を取りバンケルエンジン、またはロータリーピストンエンジンと呼んでいる。