メルセデスベンツ300がどのような乗用車か、前回の解説で既にご承知のはず。世界中に公用車として君臨したが、その300にオーナードリブン用でスポーティーな300Sが追加されたのは、意外に早い52年のパリ自動車ショー(パリオ-トサロン)だった。(トップ写真:300Sグランドツーリング・ロードスター。ロードスターの幌は簡易型だからコンパクトに畳めるが耐候性ではカブリオレに劣る)
正式名称は、メルセデスベンツ300Sグランドツーリング、いわゆるGT。Sはスポーツの頭文字で、300セダンのお抱え運転手仕様に対し、300Sはオーナー自らハンドルを握るスポーティーな乗用車、しかも飛びきり上等バージョンである。
くしくも同じ年の日本にもスタイリッシュなロードスターが登場している。ダットサン・スポーツDC3。といっても戦前型ダットサンをベースに憧れのMGに似せて造ったもので、姿性能ともに、300とでは“月とスッポン”というスポーツカーだった。
いずれにしても52年頃の日本自動車メーカーは、西欧の最新技術習得に必死だった。ラジオからは♪越後獅子の歌♪リンゴ追分♪が流れ、天才少女歌手、美空ひばり全盛の頃だった。
300Sは、300セダンのホイールベースより190㎜も短いのに、セダンより20kg軽いだけ。で、115馬力ではSを付けたところで実力ではGTを名乗る資格はないと思った。
が、天下のダイムラーベンツがそんなものを造るはずがない。母体のM168型エンジンの圧縮比を6.4から7.8に、二連装ソレックスキャブレターを三連装に、結果150馬力を絞り出した。
で、最高速度は160粁から176粁へ、ゼロ400加速も18秒台から15秒台へと大幅向上を果たし、名実共にGTを名乗る資格を得た。このエンジンをM188型と呼ぶ。
300Sは、セダンのホイールベースを縮めてパワーアップを図り、これだけの巨体なのに二座席。写真で判るだろう、ラジェーターグリルがセダンより後退、エンジンも後退した結果、優れた前後荷重バランスで、優れたコーナリング性能を生み出している。
300セダンのドイツでの販売価格は1万9900マルク、カブリオが2万3700マルクなのに対して、300Sの価格はなんと3万4500マルクという、とびきりの値段だった。
ちなみに、後年登場する、一世風靡のスポーツカー、300SLを上回る高額GTだったのである。
300Sには3タイプがあり、ロードスターと上等な幌仕様のカブリオ、そしてハードトップクーペがあったが、驚いたことに、3タイプ全て同じ値段だった。
300Sは、後に燃料噴射で200馬力になり300Seを名乗る。いずれにしても、手作り工芸品みたいな車だから高額が当然、ということで、7600台が造られたにすぎない。
しかも注文生産ゆえ、ゆとりあるオーナーが客筋で、例を挙げれば、ハリウッドの名優ゲイリー・クーパー、偉大な歌手ビング・クロス
ビーというように世界一流の芸能人、もちろん世界の王侯貴族金満家御用達だったのも頷けようというもの。
貴重稀少な高級GTのオーナーが日本にも二人居た。どちらも走っている姿を東京で見たことがある。
一人はWWⅡが終わり日本に亡命してきたブレーク・ピブンソンクラーム。日本では、通称ピブン首相。軍人政治家として戦前戦後を通じ、何回もタイのトップに立った人物だが、57年のクーデターで失脚、身の危険を感じ日本に亡命して、300Sを愛用していた。日本に知人が多かったのは、戦争中のタイで、ビルマ(現ミャンマー)から印度へ英軍を追う日本軍に、タイの国内通過を許可、そして日本軍には好意的だったからだろう。
もう一人は、戦後の人気映画俳優・高橋貞二だが、愛用の300Sクーペと共に悲惨な運命が待っていた。59年11月、運転中に横浜の市電に激突、死んでしまった。が、車はレストアとされて、何処かは知らないが大切に保管されていると聞く。