【車屋四六】ジョンブルの頑固・モーガン

コラム・特集 車屋四六

MG、トライアンフ、オースチンヒーレイ、シンガー等々、50年代進駐軍兵士軍属家族が日本に持ち込み、走っていたロードスター達である。どれもが、ジャガーやアストンマーチンなどの重量級ではなく、ライトウエイトスポーツカーと呼ぶジャンルの車達だ。

中でも飛び抜けて数が多い人気者がMGで、当時スクーターが来れば「ラビットが来た」、クロカン型四輪駆動車をジープと呼んだように、スポーツカーを見つければMG。MGは代名詞化していた。

冒頭に表記の車達の他に、変わり種で目立つロードスターが走っていた。町で遭遇すればラッキーと云うほどに少数派だったが。後年、初期の富士や船橋サーキットで人気者、留学生から学習院講師という変わり種英国人ボブ波嵯栄(ハザウェー)のブリティッシュ・レーシンググリーンの鮮やかなロードスターがそれだった。

それは英国で生き続けるシーラカンス、まさに生きた化石とも称されるモーガンで、その源流は、59年に生涯を閉じたハリー・モーガンの手で1910年に誕生した。(写真トップ:東名高速を併走する最近のモーガン:カメラを出したら手を上げて挨拶してくれた)

そのモーガンの後ろ姿。相当のマニアらしく後部にはオプションの荷台がありクラシックな革のトランクも英国風

その1910年=日本では明治43年で、12月14日に代々木練兵場(現代々木公園)にて、日本人が初飛行に成功した。パイロットの日野大尉はドイツで飛行術習得。帰国時8000円で購入のハンスグラーデ機は単葉24馬力。この日、一回目高度一mで30m、二回目は高度10mで60m飛行に成功した。

さて人呼んでスリーホイーラー、三輪ロードスターのモーガンはシャフトドライブのFRでトランスアクスル型。二本のチェーンを切り替える変速機にはリバースがない。軽量で「どっこいしょ」と後輪を持ち上げて方向転換したそうだ。私も経験者だが、RRのフジキャビンは前を持ち上げてだった。

も一つの大きな特徴は、V型二気筒エンジンが裸のまま剥き出しでラジェーターの前に置かれていたこと。いずれにしても高性能と安価を両立させたことで人気は上々だったそうだ。

しかし、スリーホイーラー型はWWⅡ以前に人気が下降、35年にモーガン4/4を発表して四輪車に転向している。この4/4は、四輪車/四気筒エンジンを表している。

モーガンがシーラカンスと云われるゆえんは、姿がクラシックのままというだけではない。10年に誕生した時の基本構造が、今日にいたるまで継承され続けているということ。

リアアクスルとトランスミッションが一体化したトランスアクスル、スライディングピラー型と名付けられたコイルスプリングで独特な構造の前輪の懸架構造などだが、チェーン式変速機だけは、さすがに塩梅が悪かったようで、三輪時代に既に止めている。

誰でも思うだろうが、旧態依然のモーガンの愛好者達は、懐古趣味で古きを愛し楽しむ人達と思いがちだが、実は62年にはルマン24時間レースでクラス優勝という実力の持ち主でもある。

波嵯栄が日本のサーキットを走り回っていたのは、愛国心でも、物好きでも無かったことが納得できようというもの。基本は古いままだが、時代に合わせて、入手可能な高性能エンジンを載せて戦闘力を維持しているのである。

モーガン・スリーホイーラーを前から:ラジェーター前のV型二気筒エンジン、独特な前輪懸架装置が見える

もちろん、10年誕生以来の熟練職人の手作りということも変わらない。TVで見たが、木骨にボディーを貼り付けて組み立てる、バーを型に置いて縦目のラジェーターグリルを組み立てるシーンは実に楽しかった。

大量生産無視の手作り生産も誕生以来のままだから、年間生産台数は五〇〇台に満たないそうだ。で、いまでもバックオーダーを抱え、客が待たされることも昔のまま。

二十世紀初頭に誕生して二十一世紀、百年間ものあいだ基本構造を変えずに手作りのまま、まさにシーラカンスと呼ぶにふさわしいロードスターといえよう。

60年代半ば、SCCJ主催の長岡ヒルクライムにホンダS600でクラス優勝した帰り道、三島から箱根を越える山頂付近でしつこく私を追い上げるブリティッシュグリーンのモーガン一台。

バックミラーに映るドライバーが笑っている、よく見ると同じ帰り道のミッキー・カーチスだった。