スカイラインGT-Rの連戦連勝は未だに語りぐさ。が、連勝GT-Rにも何時かは王座を奪われる日が来る、それはトヨタだろうと誰もが思っていたが、王手を掛けたのは予想外な伏兵だった。
海外のレースで経験を積んだマツダのロータリーエンジン=RE勢だった。先ず、緒戦は鈴鹿で小手調べ。そして最初の激突が、70年の日本グランプリだった。
結果はGT-Rに軍配が上がるも、一抹の不安を残す勝利だった。それは、加速と直線でのスピードがGT-Rを上回ることだった。
黒沢元治のポールポジションで四台のGT-Rが滑り出すシーンは何時も見慣れた光景だが、初めにバンクに飛び込んだのは五番手からスタートのREという、信じられない光景だったからだ。
が、コーナリングではGT-Rが優れ、最終コーナーから顔を出したGT-Rに、ファンは胸を撫で下ろすのも束の間、グランドスタンド前の直線でREが抜き返す。その繰り返しでレースは進行。
そんな激闘が続いて、高橋国光と片山義美の両陣営のエースが潰れた後、勝利を手にしたのはGT-Rの黒沢元治だった。勝利は手にしたが、反省した日産は早速手を打った。
で、五ヶ月後に登場の新GT-Rは、ホイールベースを70㎜短縮、フォードアからツードアハードトップに変身。これで旋回性能の向上、軽量化で加速力向上を果たす。
で、再びGT-Rの快進撃が加速する。が、独走時代の以前と違い、ファミリア、カペラ、サバンナと、GT-Rの前には常にRE勢が立ちはだかるようになった。
71年10月、黒沢のGT-Rが49勝目を揚げ、ついに念願の50連勝への王手を掛ける。が、この頃のGT-Rは、誰の目にも疲れ切ったチャンピオンという様子だった。
加速ではRE勢について行けないが、GT-R本来のずば抜けた旋回性能と、日産ファクトリードライバーの磨き込まれたテクニックで、ようやく勝ちを拾っているという感じだった。
それを実証したのが年が明けた三月。予選日の快晴が嘘のように本番の日は強風横殴りの雨、という悪条件の中、大きなカウンターの豪快なコーナリングテクニックを披露しながら、一台、また一台とREを刺しながら50勝目を手にする光景は、高橋国光の独演会を見るようだった。
が、何時かは来るだろうと思っていた運命の日がやって来た。72年5月の日本グランプリ。ポールポジションは片山のサバンナRX-3、二番手が高橋のGT-R。
スタートして、最初にバンクに飛び込んだのは四台のRX-3。が、GT-Rの高橋は鍛えた技を駆使してコーナーで抜き返す。また直線でRX-3に刺されるが、すでに見慣れたパターンだった。
その年の日本グランプリの勝者は片山のRX-3を筆頭に、二位、三位もサバンナ、四位がGT-Rだった。勝者必滅の例えどおりGT-Rは敗れたが、両車の闘いは未だ続きがあった。
同年、10月の富士マスターズ。二番手からスタートの黒沢操るたった一台のGT-RにRE勢が襲いかかる。直線でRE、コーナーでGT-Rは何時ものパターンだが、どこかが何時もと違う。最終コーナーから顔を出すGT-RをREが刺すのが、毎回ゴールラインを過ぎてから、で、ひょっとしたらと、GT-Rの51勝目を思わせた。
が、運命の女神は冷たかった。あと6周でゴールと観客が希望を持ち始めた時、周回遅れのサバンナと衝突。初めて最終コーナーにサバンナが顔を出して、観客のはかない希望は消えてしまった。
このレースが、不滅を誇ったスカイラインGT-R、いわゆる箱スカGT-Rの最後のレースとなった。
思い起こせば、第二回日本グランプリ鈴鹿の晴れ舞台で、ポルシェ904に負けたのに、一躍人気者になって市販車として命を拾ったスカイライン2000GT、いうなれば勝負に負けて勝ちを得た。
そんな2000GTからバトンタッチで優勝街道を走り始めたGT-Rだが、その最後は、勝負に勝ちながら勝利を失うという、皮肉な結果で終わったのである。