【車屋四六】昔むかしBC戦争というのがありました

コラム・特集 車屋四六

昔のことだから若者は知らないだろうが、BC戦争と呼ばれた闘いがあった。B=ブルーバードvs C=コロナの宿命的闘いである。

緒戦は、初代コロナと初代ブルーバード310で始まったが、310の圧勝で終わる。もっともコロナはダットサン210退治で開発されたのに、登場したら新鋭310に世代交代していたのだから仕方なし。が、コロナは二代目になっても、310には勝てなかった。 勝ち誇った日産は、310から410に衣替したが、こいつがブルの命取り。コロナに負けて王座を奪われてしまう。当時の日産は、WWⅡ以前からの実績で、小型市場では日本のトップという自負があり、こいつは許せぬ出来事だった。

当時のユーザーが“技術の日産”の定評を頭から信じていたように、性能面ではコロナを上回っていた。それは、各地のスピードイベントの実績が証明していた。サファリラリーでもクラス優勝、その記録がベストセラーになり映画化したのが、石原裕次郎主演の“栄光の5000キロ”だ。

410の敗因は、スタイリングだった。当時世界最高人気の伊カロッツェリア・ピニンファリナに、大金を投じた機能優先の先進的スタイルが、こと車では発展途上中の日本ユーザーが嫌ったのである。

心機一転の日産は敗因を頭に叩き込み、全力投球で完成したのが三代目ブルーバード510で、410からのバトンタッチは66年。音速機のイメージで、スーパーソニックラインと名付けた姿はバランスの良いプロポーショだった。

510は姿だけでなく、技術の日産に恥じぬ技術も詰め込まれていた。先ず斬新サスペンションは、前輪マクファーソンストラット、後輪は部品点数が多くコストが高いセミトレーリングアームで四輪独立懸架、こいつがサーキットでは大いに威力を発揮する。

日産は、国内レースはもちろん、63年から参加のサファリラリーでも大活躍。510は強敵ポルシェを蹴落として総合優勝を飾った。

サファリに510初参加の68年、主力はセドリックなので、510は市販1600SSSノーマル仕様のままだったのに好成績を挙げ、70年に念願の総合優勝を果たすのである。

過酷なサファリラリーを疾走するブルーバード510。念願のサファリを制覇する

さて、四輪独立懸架はコーナリング性能ばかりでなく、乗り心地も稼いだ。変速機はポルシェシンクロ。前輪ディスクブレーキ、標準ではないがラジアルタイヤ、全てが斬新装備だった。

ドアのガラスが斬新なカーブドグラスで、室内に明るさと開放感をもたらせ「美的観念から三角窓を廃止」したと云うが、こいつ「安く造るためじゃない?」と陰口をたたく専門家がいた。もっとも、開閉用レバーの突起が米国の安全基準に抵触する、という理由を聞いたこともある。

510には、1300と1600があり、68年、フォードアにツードアクーペが登場する。新開発のL型エンジンは、両車ボアが共通で、ストロークを59.9㎜、73.7㎜で造り分けている。

それぞれの性能は、1300シングルキャブレターが73馬力、1600がSU二連装で100馬力だった。が、時代とともに戦闘力の増強が必要になり、1800が登場するのが70年で、搭載車は人気が高いSSSシリーズだった。

このブルーバード510は、サファリ始め、多くのスポーティーイベントを制覇し、日本の小型市場でコロナから王座を奪回したばかりでなく、歴史的にも名車の誉れ高く、後世の語りぐさになる傑作車となる。

片山豊率いる米国日産で、ダットサンの名をアメリカ市場に定着させたのも、この米国名ダットサン510とダットサン240Zの功績だったと云われている。

片山さんロスでの愛用車ダットサン240Z:帰国時長年仕えた秘書にプレゼント、現在でもこの姿。彼は米国でフェアレディーを100万台も売りMr、Kの愛称で米国ファンに愛されている